Salvage

海底に沈んでいた物が引き揚げられるように、ふと忘れていた記憶を思い出すことがある。 それは予期せぬタイミングで呼び覚まされ、脳裏にまざまざと浮かび上がる記憶の映像につい歩みが止まるほどだ。

バイト先へと向かう途中、小学生の集団とすれ違った瞬間にふわりと漂ったプールのあの特有の匂いでオレは、花道と共有した真夏の夜を思い出した。

そのことがどうも頭から離れなくて、バイト帰り、用もないのに花道のアパートにふらりと立ち寄った。 突然の来客に花道は不思議そうな顔をしたが、さして珍しいことでも無ければ断わる理由も無かったのだろう、快く入れてくれた。 銭湯から帰ってきたばかりだったようで、花道が歩いた後から安物の石鹸の匂いがした。

「こんなに暑いのにジュースの一つも持ってこねーなんて、気の利かねぇ客だぜ」

憎まれ口を叩いて花道は扇風機の前にどっかりと腰を下ろした。オレも言われて初めて、自分が手ぶらで来たことに気付く。 いつもは頼まれるでもなく行きがけにあった自動販売機で二人分の缶ジュースを買っていた。 だからと言って買い忘れたことを後悔しないし、戻って買いに行くつもりもないけど。

出しっぱなしの煎餅布団の上に胡座をかく。他愛のない世間話をしたが、お互いに何ら代わり映えのない日常を送っていたから、 十数分ほど喋っただけですぐに話の種は無くなり、それからはただ無言の時間が流れていた。

タバコのヤニで黄ばんだ砂壁をぼんやりと見ながら、あの夜のことを反芻する。いつの間にか蚊に刺されていた脛を掻いた。

あんなこともあったなぁ、と懐かしく思う。

とても短くて濃密な一ヶ月だった。あの頃の花道は本当にガキで、オレもそれに振り回されながら、 仕方なく付き合ってあげるフリをしていたガキだった。それは今も変わっていないのかもしれない。

ムリヤリにムチャクチャなことをする。それは時に呆れ返るほどくだらない小学生じみた真似だったり、いかにも不良らしい行為だったりと色々あった。

ムリヤリとは言ったが、別に断ろうと思えばいくらでも断れた。頭に血が上りやすい花道も「友だちに嫌われる」という経験はしたくはないようで、 時には一触即発の雰囲気を醸し出してぶつくさと文句を垂らすが引き下がってくれた。

でもあの一ヶ月間、オレは断ったことがなかった。理由はただひとつ、楽しかったからだ。 バカなことをしているなぁと自分自身に呆れながらも、そんなバカなことをガムシャラに楽しんでいる花道と一緒にはしゃいだ。 「今」を全力で生きているんだと実感できたから。

パチンコ屋で配られていた団扇をパタパタと扇ぐ。でも部屋を充満する生暖かい空気がそのまま勢いよく肌にぶつかるだけで効果は無い。 むしろ忙しなく手を動かすから疲労でより体力が奪われていく。

それにしても今日は本当に暑い。汗ばんだ背中にべっとりと張りつくシャツの感触が不快だ。

今年の夏は例年よりも暑いだとか、地球温暖化がどうこうだとかニュースのアナウンサーが喋っていたのを思い出しながら、 部屋の角にある、故障しているクーラーを睨むように見上げた。肝心な時に使い物にならないクーラーが視界の端に映るとこんなにも目障りだなんて思わなかった。

そのまま恨みがましい目付きで視線を窓の、さっきから絶え間なく聞こえる扇風機の駆動音がする方へ向ける。 部屋の主は扇風機の前を陣取って、文字通り涼しい顔をしていた。

クーラーは数日前から壊れていた。治してもらえよと言ったが、「修理代が高い」と、実際の金額なんて知らないくせにそう言い張って首を横に振っていた。 どうせ修理代を出すのはお前じゃないんだし、死活問題なんだから存分に甘えればいいのにと思ったが、 コイツのそういう時の遠慮がちな態度は普段の頑固さと相まって手に負えないから言わなかった。

「あちー。暑すぎるぜ」

花道が誰に言うでもなく話す。扇風機を独り占めしている癖によく言うぜと思った。

「あとタイクツだ。ヒマだヒマ。なんとかなんねーのかよ洋平ー」

高速に回転する扇風機の羽根で声がブルブルと震えていて聞き取りずらい。

「ヒマなら寝ればいいだろ」

オレの言葉に花道は「目ェ醒めてて眠くねーもん」と返した。

「じゃあどっか涼しめるとこ行くかー?」

仕方なく提案する。でも具体的な内容は何も浮かんでいない。それに確かに退屈だが外に出るのは億劫だった。 外は噎せるような暑さだ。……この部屋も同じようなものだが。

玄関の扉を開けると湿度の高い空気がムワッと体を包み込む瞬間を想像をしてしまい、さらに気力が削がれる。 それなのに本心とは裏腹なことを言ってしまった。吐いた唾は呑めない。

花道が笑みを浮かべて頷く。どうやら乗り気なようだ。

「あーそうするか。コンビニ行こうぜコンビニ。それかいっそ海に行って泳ぐか!」

海で泳ぐという言葉に、危ねぇしそんな元気ねぇよと言いかけた口が止まる。またあの時の記憶が脳裏に浮かんだ。

「学校のプールがいい」

滑り落ちるように口から出た言葉に、花道は意外そうな顔でオレを見た。言ったオレも同じような顔をしそうになったが、それを悟られないように続ける。

「ほら――中二の時に学校のプールで泳いだだろ。夜中にさ、覚えてるよな? アレ結構良かったからまたやりてぇなって。 あぁでもここから学校は流石に遠いか。あともしバレたらヤバいよな。オレはともかく花道が。 それに入れるかどうかも分かんねぇし――いや、わりぃ、今のナシ」

花道の肩の向こうにある砂壁のほうを見ながら手振りを交えて口下手に喋る。 花道の視線が自分に注がれているのが分かる。ふてぶてしい面をして黙っている花道に、オレは段々と自分の発言に後悔した。

だが、不意にニヤリと悪ガキのような笑みを浮かべて花道は扇風機のスイッチ切った。

「いいな、ソレ」

オレは思わず聞き返す。

「えっ?」

「行こうぜプール。久しぶりに入るか」

花道はゆっくりと立ち上がった。大きく体を伸ばしながら話し続ける。

「着替えとか持って行かなくていいよな。遠いから原付に乗せろよ、言い出しっぺなんだからな。ホラ、立て立て」

ぐりぐりと押し付けられるように足で軽く背中を蹴られる。オレは急かされて腰を上げた。花道の後ろをついて行く。

その後のことはよく覚えていない。いや、覚えてはいるが、実感がなかった。 バラバラのシーンを一つに繋げた映画を観ているような、それを体験しているのがオレでありながら、 オレではないような感覚。幽体離脱のような感覚。

玄関の扉を開けると見える町の明かり。原付に跨って走った夜中の道路の景色。 風とエンジン音に混ざって背中から聞こえる花道の声。威圧感を出して聳え立つ学校。 真っ暗な廊下から差し込む月光の白。ガチャガチャと適当に回すだけで開く故障した屋上の扉。

ハッと我に返れば目の前には凪いだ水面が広がっていた。

その真ん中に花道が突っ立っている。下着だけの花道がプールの中でオレを呼んだ。

「なにボーッと突っ立ってんだ。早く入れよ」

その声に誘われるようにオレも服を脱ぐ。

水面に足を浸らせるとあっという間にトランクスが濡れた。トランクスの裾が足にまとわりつく。 服を着たまま水に浸かるのは相変わらず慣れない。

ザブザブと――泳がず、歩いて花道のもとまで行く。花道は何も言わず、オレが来るのを待っていた。心地よさそうに、薄らと口角を上げていた。

「見ろよ。スゲーキレイだ」

花道が空を見上げて言う。オレもつられて上を向いた。

見れば満点の星のなかで一等強く輝く満月が目に映った。目を凝らせば表面の凹凸までもが見えそうなほどに大きな月。 町の明かりよりも強い眩さに、月の周りも薄白くなっている。この世界を覆いかぶさる透き通った黒が果てしなく続いている 。空はあんなに遠くにあるのか。

「あぁ……」

同意とも感嘆ともつかない声がため息とともに漏れ出た。深く鼻で息を吸うと、あの日の記憶が色濃く蘇る。

過去の記憶をなぞりながら、鮮烈に刻んでいくこの匂い、あの夏の夜と同じ匂い。

水面の奥深くに沈んでいた時間がここにあった。