夏陰と澄晴
赤木晴子はそれでも流川を愛していた。
新学期まで片手で数えられる程となったある日の昼下がり、晴子は体育館に足を運んだ。ここしばらくは課題や家の用事、 友人と夏休みを謳歌することで忙しく、なかなか体育館に顔を出せずにいた。ようやくそれら全てが終わったので、これで思う存分応援に行ける。
開かれた校門を通り抜けて、体育館へと行く。歩みが進むにつれて、体育館から聞こえるボールの跳ねる音や部員の足音、 シューズが床を擦る高い音が大きくなっていく。聞き慣れた調べは普段なら彼女の胸を踊らせると同時に安らがせもするが、 しかし今の晴子は焦りにも似た感情で、心を浮つかせていた。
いよいよ明日、流川が全日本ジュニア合宿に行く。
八月の末に開催されるその合宿に、全国から優秀な選手が集まる。彼らは一次二次とテストを受けて厳選され、 最終テスト後には二十にも満たない数に収まる。喜ばしいことに、流川楓はその一人に入った。
合宿の期間はほんの数日だが、今日を逃せば夏休みの間に姿を拝める機会はなくなるので、彼女はバスケ部の応援がてら目に焼きつけておこうと考えたのだ。
体育館のシャトルドアから頭を覗かせると、バスケ部は既にシュート練習を終えて、何やらゲームを行っているようだった。
「あっ、晴子ちゃん!」
声のしたほうに顔を向けると、彩子がこちらに手を振り、駆け足で寄ってきていた。
「久しぶりねぇ! もしかして、やっと課題から解放された?」
晴子は眉尻を下げて微笑んだ。「お久しぶりです彩子さん。えへへ……正解です」
晴子は彩子の肩越しにちらとコートを見やり、「今、みんなは何を?」と訊ねた。
コート上には、三井と流川に加えて二年生の全員と、合計で六人がゲームを行っていた。ボールを手にした時のそれぞれの動きから察するに、 流川、宮城、角田に対して三井、安田、潮崎が相手となっているようだ。ゲームに参加していない一年生の三人は、 彼らの邪魔にならないようにコートから外れた場所でパス練習をしていた。
彩子が答えた。「3on3よ。流川が明日合宿に行くから、特別に練習しようってことで。 ホントは五人ずつのちゃんとしたゲームがしたかったんだけど、人数が足りなくてね」
なるほど、と晴子はゲームを眺めながら頷いた。
ちょうどその時、角田に阻まれながらも一瞬の隙を突いた安田が三井にパスを渡し、間一髪で宮城の猛攻を避けて三井は更衣室側のゴールにレイアップシュートを入れた。 汗だくになりながら、これ見よがしに猛々しく吼える三井と、悔しさで顔を歪ませる宮城の様子に、晴子は平和を感じて笑った。
「ちょうどいい時に来てくれたわ。どうしても話したいことがあったの」
晴子の様子を見ていた彩子が言った。
「なんです?」
彩子はサッと晴子の両手を取った。
「マネージャーとしてバスケ部に入ってくれないかしら?」
あたかも手から電流が流れたかのように、晴子は目を見開き肩を跳ね上がらせた。
「わ、私がですか⁉」
彩子はにこやかな笑顔で手を上下に振った。
「そうよぉ。あなたしかいないわ! バスケットの経験者で、バスケットに詳しくて、バスケットが大好きな子。 そんなマネージャーに打ってつけ子、あなたの他にいないわよ!」
彩子はそう言うと、晴子の手を離した。後ろ手を組み、片足に重心を置いた姿勢で話を続ける。 「再び全国を目指すチームには、アタシ一人じゃ足りないわ。それに……アタシも来年の今頃には、受験勉強で引退しているしね。 早いうちに色々と教えておきたいと思って。とはいえもちろん忙しくなるし、いつでも友達と遊びに行ったりはできなくなるけれど、 でもほぼ毎日部活を見に来てくれた晴子ちゃんならやれると思うの。広島まで応援に来てくれて……それだけじゃない。 ここでの桜木花道の特訓に、あなたも毎日欠かさず協力してくれたんでしょう?」
彩子は晴子に目を合わせると、意味ありげに笑みを深めた。
「あの子が成し遂げられたのは、あなたが毎日そばにいたからだと思うわよ?」
晴子はつい目線を逸らしてはにかんだ。しかし彼女は、彩子がそこに含めた言葉と微笑みの意味を理解してはいなかった。 彼女は、洋平たちと一緒に花道の特訓に協力したことを褒められて、照れただけだった。
彩子は手は後ろに組んだまま、背筋を正した。
「桜木花道をバスケットの世界に導いてくれたのが他でもないあなただからこそ、お願いしたいの。……でも無理にとは言わないわ。考えてくれるかしら?」
晴子は今すぐ二つ返事で頷こうとした。しかし、返事を待つ彩子の真摯な瞳に己の顔が映り、晴子は声を詰まらせた。
「……少し時間をください」
目線を下げ、申し訳なさそうに言う。彩子はふっと柔らかな表情で、子供に言い聞かせるような優しさのたたえた声で言った。
「うん、大丈夫よ。返事はいつでもいいからね」
彩子はそう言って元いた場所に戻っていった。
晴子はシャトルドアに凭れて、ぼんやりとゲームを眺めてしばらくそこに留まっていたが、頃合いを見てそっと体育館を後にした。
照りつける太陽はギラギラと眩しく輝き、熱が針のように容赦なく晴子の肌を突き刺しては広がっていく。 茹だる夏の蒸し暑さにアスファルトの通路の奥では陽炎が揺れている。生徒用玄関に着いた時には彼女の背中はもうじっとりと汗ばんでいた。
開け放たれた玄関から校舎に入る。上履きに履き替えて廊下を渡れば、そこは体育館と比べて風の通りが良くて涼しく、冷気が濡れた背中に触れて気持ちがいい。
しかし晴子は悩ましげにため息を吐いた。彩子の頼みをすぐに引き受けられなかったことが彼女の頭を悩ませていた。
彩子が自分を誘う理由はもっともだと彼女は思った。確かに自分は中学時代はバスケ部員だったし、 ルールもよく知っている。兄と強豪校の選手についての話題で盛り上がれるほど、その界隈についても多少は明るい。 理由は他でもなく、バスケットが大好きだからだ。恐れ多いことだが、確かにそんな人材は、この学校では自分の他にはなかなか見当たらない。
マネージャーになるという選択肢を自分から考えたことはなかった。しかし、兄も一度か二度、 会話の流れで「マネージャーになるのはどうだ」と提案してきた記憶がある。
あの時も、適当にはぐらかして、答えることはなかった。うやむやにしていた理由を晴子は分かっていた。
怖かった。どんどん上達していく桜木を見ていると、そうなれなかった自分を思い出してしまう。
桜木の成長を目の当たりにするたびに、純粋な喜びと期待で満たされた己の心の内に翳りが差した。 ほんの僅かだとしても、それは澱のように重く沈殿している。高く跳べるのが羨ましかった。 シュートを入れるコツをすぐに理解できる飲み込みの速さが羨ましかった。自分には無いものを持っている桜木に、羨望では留まらず、嫉妬までしてしまう己がいた。
マネージャーとして今以上にバスケットに深く関わったら、もっとこんな後ろめたい思いを抱いてしまうんじゃないか、そう彼女は怖れていた。
中学時代の思い出が去来する。自分もプレイヤーとして部の一員となっていたあの頃が、走馬灯のように浮かんだ。 部活は楽しかった。けれども当然、楽しいだけじゃなかった。練習が厳しかったことや、試合に負けて悔しかったことではない。 自分には向いてない、そう諦められるだけの出来事がたくさんあった。
高校ではバスケ部には入らないと言った時、兄は驚くことも理由を聞くこともなく、ただ一言「そうか」と答えた。 それは不器用な兄なりの優しさで、こういう時、兄の目は言葉以上の力を持っていると、晴子は感じていた。だから晴子も、まず初めに兄に話すことができた。
後ろ暗い考えが脳内を支配していることに気付き、晴子は咄嗟に頭を振り、そして深く息を吐いた。 黒い靄が出ていくようなイメージを持って吐き出すと、幾らか効果があった。
感傷に浸りたいわけじゃない。プレイヤーとしての道を断った自分の選択に後悔はない。 バスケットが好きだという気持ちは、どんなことがあろうと壊れない。
『ほんの少しでも嫉妬心があったって、私は桜木くんへの協力を厭わない。それだけは絶対に変わらない。だって桜木くんは大切な友達だから。 マネージャーになることで、桜木くんの力になれるのなら、私は喜んで引き受ける。桜木くんは日本一のプレイヤーになる。流川くんと一緒に、世界を股に掛けるバスケット選手になるんだ』
流川くん──
晴子は足を止めた。そして誰かに呼ばれたように、くるりと踵を返すと階段の昇降口へと向かった。
未だ3on3は続いており、メンバーは少し変わっていた。流川チームにいた宮城が潮崎と交代していた。
白熱した3on3を繰り広げるメンバー全員を見ているつもりだったが、いつの間にやら彼女は流川だけを見つめていた。
インターハイ後の流川は、以前にも増して鬼気迫るものがあった。三回戦の記憶は、ただの観客でしかなかった晴子にも苦々しい。 あの敗北は、負けず嫌いの流川にとって、言い訳の余地なく認めざるを得ないものだったとしても、酷く屈辱的だったことには変わりない。
もう誰にも負けない。何度目かの決意を胸に秘め、心機一転した流川は、己の描く理想に向かって驀進していた。そのための第一歩が明日の合宿だ。
部活中の流川の気迫に押されず近付ける者は、同じ部員の中でも数少ない。いわんや部外者である自分なら尚更だ。
『……ますます私の入る隙間なんてどこにも無いな』
晴子は自嘲気味に微笑んだ。
流川の心の中に、自分が入り込む隙間は初めからどこにも無かったのだと悟ったあの夏の黄昏時から、それでも彼女は変わらず彼を心のうちで恋い慕っていた。 しかし折に触れては、その事実を思い出した。ただ思い出すだけだった。だから悲しかったわけでも、虚しかったわけでもなく。
『私は流川くんのどこを好きになったんだっけ……。』
晴子は首を傾げてシャトルドアに頭を当てた。ゴン、と鈍い音が小さく響く。
以前、そう何となく呟いた時、友人から顔だろうと即答され、慌てて否定した。もちろん容姿も好きだが、それだけじゃなかった。 それだけじゃないはずだ。バスケをする顔がカッコイイから好きだ。でも目鼻立ちだとか、そういう意味ではない。しかしこれでは漠然としているし、 何かが言い足りない。それは分かっているのに、上手く言葉にできない。
言語化できないもどかしさに晴子が下唇を噛んでいると、三井の張り上げた声が聞こえた。
「ディフェンス甘ェぞ潮崎! そんなんじゃすぐ抜けられる!」
宮城のディフェンスについていた潮崎が、叱咤を飛ばされた。ボールマンは宮城だ。コートの中央左側、センターサークルの外縁に立って突破口を探している。 センターラインを隔てて、流川は宮城の斜め後方で様子を伺っている。流川の行く手を阻む安田が、自分よりも遥かに体格と威圧感のある流川に負けじと粘り強く守りを固めていた。
宮城の顔に不敵な笑みが浮かぶ。出し抜けに一気に駆け出した。慌てて潮崎も横に並びそれ以上の侵入を防ごうと躍起になった。 宮城はドライブをしながらフリースローラインに入ると、左肩を前に出して潮崎の胸に強く押し当てた。そして一定の律動で二歩進むとやにわに足を踏み揃え立ち止まった。
潮崎は、それまで宮城が取っていたリズムの突然の変化に対応しきれず一瞬間、判断を遅らせた。宮城はその隙を見逃さない。 潮崎が胸を強く押されたことで後ずさり、宮城の周りに僅かな余裕が生まれた。宮城は膝を折り曲げ、 急な制止で生まれた力を利用しそのまま真上に跳ね上がった。ボールに添えた右手をリングに目がけて振りかぶる。ボールは空中を浮かび、天高く上に進んだ。
パワーレイアップが決まるかに思えたがしかし、いつの間にか安田のディフェンスをくぐり抜け、 宮城の背後にいた流川の手が力強くボールを横に向かって押し下げた。力をかけられたボールはそのまま勢いよく弾き落とされる。
「クソッ!」宮城が堪らず言い捨てた。
三井と角田が落ちたボールをリバウンドで奪い合う。跳んだ位置とタイミングが影響し、ボールは角田の手に収まった。 角田がもう既に自分のゴールに向かって走り出そうとしている流川に向かって投げた。安田が掠め取ろうとするも虚しくボールは流川の手に渡った。 リバウンドを取られた三井は疲弊した顔を上げると、シャトルドア側のゴールに向かって一心に走り出した。
猛スピードで男たちがこちらに向かって走る迫力に、晴子は身じろいだ。
流川がドリブルをしながら全力疾走でゴールへ向かう。彼の足がフリースローラインの内側に大きく踏み入った瞬間、 彼はボールを両手に持ち替え高く跳び上がった。そしてそのまま力強くゴールネットの中にボールを叩きつけた。
刹那、晴子の瞼に在りし日の記憶がまざまざと浮かび上がった。
スラムダンクの衝撃でバスケットゴールが音を立てて軋み、ボールは床に強かに打ち付けられて跳ね返り、シャトルドアから飛び出した。 晴子は真横を通り抜けていくボールに何の反応も示せず、立ち尽くしていた。
その横を息を荒らげた流川が通る。転がるボールを拾い上げ、体育館へと戻る。その間、流川が晴子に視線を向けることはなかった。 晴子も後ろにいた流川に振り返ることはなく、ただ体育館を出る顔を、戻る背中を見ていた。
彩子がホイッスルを鳴らして休憩を告げる。ホイッスルのけたたましい音に晴子は我に返った。
三井が駆け寄って何事かを喋りながら流川の背中をバシバシと叩く。負けたことの悔し紛れなのだろう。疲労で顰めた顔で、 流川にしつこく絡む。そこに宮城も加わり、汗だくの男三人がワチャワチャとしている様は見ているだけで暑苦しかった。
晴子は、まるで三井と宮城を存在していないかのように扱っている、流川の平然とした顔を見つめた。見つめながら、 彼女は先刻の流川のスラムダンクを、繰り返し繰り返し脳内で再生させていた。
眼前で跳び上がった流川の姿。バスケットゴールが軋み、ボールが跳ねる。熱気が渦巻き空気が揺れる。 瞳に焼き付いた影法師が重なる。あの夏の日──流川に初めて恋をした日が甦る。
中学の練習試合で目にしたコート上の王者。その場にいた全員のあらゆる眼差しを纏いながら、我関せずと毅然として立つ姿に魅了されて、彼女は流川に恋をした。
ただバスケットボールのみを追いかけるひたむきな姿に、高みを見据える真っ直ぐな瞳に恋をした。それが理由で、ようやく思い出した。
万感の思いが止めどなく溢れる。感情は流れ出ようとして彼女の目を潤ませた。恍惚とした微笑みが咲き綻び、感動が鳥肌のように彼女の肌を駆け巡る。
だからこれからも彼の心の中に入れない。それでいい。晴子の心は満たされていた。 彼のバスケをほんの少しでも支えられるなら、彼のバスケをこれからも見ることができるなら、 それ以上は望まない。赤木晴子はそれでも流川を愛していた。
一陣の風が晴子の胸を吹き抜ける。切なく、しかし澄み渡った風が。
風で煽られた髪が頬を撫ぜ、擽ったさに細めた目から零れ落ちた涙を優しく拭った。最近は涙脆くて困る。
様々に移り変わる心はさながら花のようで、風がそうさせたのだろうか、今までの鬱積した感情は消え去り、彼女の胸中、ただそこには決意のみが残った。
『桜木くんと流川くん──私の大好きな人たち。この二人は本当にどこまでも行ける。その未来のためなら、私は何だってできる』
晴子は夏の空気を胸いっぱいに吸い込むと、靴を脱ぎ、壁沿いに歩いて彩子のもとへと向かった。