押し入れ
まず初めにインターホンを押す。扉の向こうから何の物音もしなければ、次にドアノブを回す。 鍵が掛かっているのを確認すると(不用心なことに開いている場合もある)、最後に扉の横に、邪魔にならないように置かれた、 乳酸菌飲料専用の配達ボックスをずらして、玄関の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。 玄関を覗いて、家主の靴が無ければすぐに鍵を閉めて元通りに戻すが、今回は在宅のようだ。玄関土間に学生靴がバラバラに脱ぎ捨てられている。
洋平は玄関に入ると、靴を脱ぎ、上がり框に靴の踵が密着するように揃えた。 散らかっていた学生靴も、自分の靴の横に並べる。
心のうちで家に入る挨拶を唱えながら振り返れば、目の前には台所と茶の間が合体した室がある。 突き当たりの壁には襖があり、洋平はそこへと向かった。静まり返った室内に、ミシミシと軋むフローリングの床と足音だけが響く。
やや建て付けの悪い襖を開ける。開けた途端、カーテンの開いた窓から射し込む西陽で篭った埃っぽい空気が洋平を迎えた。
畳張りの六畳半の部屋は殺風景でありながらも生活感を色濃く残している。 投げ捨てられたのか床に乱雑に置かれた薄っぺらい学生鞄と制服がその証拠だ。しかし人の気配はすれど家主が見当たらない。
洋平は一つ大きく息を吸い込むと、部屋中を一瞥することもなく真っ直ぐに左側の壁の押し入れへと進み、襖を横へと動かした。
滑らかに開かれた襖の奥、それまで真っ暗闇だった押し入れは西陽のおかげでようやく中で眠るもの達の形を浮かび上がらせた。 炬燵、小さな衣装ケース、ダンボール箱、布団、その上に横たわる男。
洋平は男に声をかけた。
「飯食いに行こうぜ、花道」
寝そべる男は返事をしない。男の赤いボンパドールはクシャクシャに乱れ、目元に覆い被さっている。 相手の態度に構わず洋平は腕を組むと、一切の声の調子を変えずに喋り始めた。
「ミッチリとお勉強をした後はガッツリでコッテリなモノが食いてーよなー。そうなるとやっぱりラーメンだよな。 バイト先の近くのラーメン屋、めちゃくちゃ美味いからそこに行こうかなー。 醤油ラーメンにしようか……鶏ガラの出汁がしっかり効いてて気に入ってるんだよな〜。 でも味噌ラーメンもいいな。スープがまろやかで味噌の香りが堪んねぇ。いやコッテリなら豚骨ラーメンか? 喉の奥まで脂が張り付くような濃厚さで満腹感が段違いだしな。いやー迷うなー。どれもめちゃくちゃ美味いけどなー。どれ食べようかなー」
散弾銃の如く喋り終えた洋平が一呼吸を置くと、押し入れの方からぽつりとくぐもった声が聞こえた。
「……醤油ラーメン」
洋平は笑った。「決まりだな」
落ち着くから。それが花道がずっと前に話してくれた理由だった。塞ぎ込むと彼は自分の殻だけでなく押し入れに閉じこもる。 現在更新中の失恋記録の、一際絶望が大きかった時にはいつもそれが行われた。
閉じこもる理由をそれ以上言わない花道に、それ以上聞かない洋平はその度に彼を押し入れから出して一緒に食事を取った。
二月の末の夕空の下、花道と横に並んで歩いていた洋平が言った。
「押し入れで寝るとかドラえもんみてぇだ」これも毎回言っている言葉だった。
目的地であるラーメン屋のテーブル席で、花道を慰め励ましつつ注文した料理が来るのを待つ。 最初は繰り言を吐いて頭を垂れていた花道だったが、テーブルの上に醤油ラーメンが置かれると店内に響くほどの腹の音を立てて、 貪るように食した。三杯目に入ってからの花道の様子に、洋平は満足した。
「昔さぁ、子供二人が押し入れの中を冒険する絵本なかった?」
食事を終え、一服していた洋平がおもむろに口を開いた。
花道が答える。「知らねぇ、何だそれ」
「マジ? 結構有名だった気がするんだけどな」
「どういう話なんだよ」花道は頬杖をついた。
花道に聞かれた洋平は、オレも全然覚えてないけどよ、と前置きして大まかな内容をうろ覚えで話した。
ネズミみたいな婆さんがいて、ガキの頃はソイツが本当に怖くて押し入れが嫌いだった。 だから悪いことをして幼稚園の先生やお袋に押し入れの中に入れると脅されたら、いつも泣きながら拒んでいた。
洋平が思い出話をすると、汁の中で浮かぶ小さな油たちを箸で引き寄せて一つにしながら、退屈そうに相槌を打っていた花道が途端に目を輝かせ、意外そうに声を上げた。
「洋平にも怖いもんってあったんだな」
そう笑う花道に洋平は返事をした。
「そりゃガキの頃はあるよ。だって押し入れって真っ暗だろ? 怖くなかったか?」
「全然怖くねぇよ。むしろ好きだったぜ。何も見えねぇし静かだったから。狭いのも好きだった。それに布団があれば暖かくていくらでも眠れるしな」
油をまとめることに夢中の花道に、洋平は「そいつぁすげぇや」と呟いてコップの中の水を飲み干した。氷が唇にカラコロとぶつかった。
一服を終えて代金を支払い、磨りガラスの引き戸を開ける寸前に花道は零した。
「あの頃にその絵本を読んでなくてよかったぜ。もし押し入れが怖くなったらおしまいだ」
言い終わると同時に開かれた戸の向こうでは、すっかり沈んだ夕日で街は緑がかった暗い青空に覆われていた。
まだ肌寒さを覚える午後六時の帰り道。ポツポツと白や黄色の明かりが灯る家々を眺めながら、 もうすぐ自宅がある通りの曲がり角に差し掛かる前に、洋平は花道の方に顔を向けて出し抜けに尋ねた。
「今日お前の家に泊まっていい?」
「えっ、別にいいけど。急にどうした」
洋平は首を戻した。「いや別に」
刻一刻と夜の色を深める空に、触れれば切れそうなほどに鋭い三日月が薄黄蘗色に輝いている。
退店間際に花道が零した言葉を聞いて、洋平はある想像をした。
小さな子供が、押し入れの中で膝を抱えて眠る様を。
今もあの押し入れには、その子供が眠っているような気がして、それなら、誰かがいれば寂しくはないだろうと洋平はぼんやり考えた。
「それじゃあまた後でな」
街灯の下に立ち、洋平は花道に手を挙げた。花道も手を挙げ返すと、振り返って夜の闇に姿を隠した。
徐々に小さくなる背中、街灯の下を通る度に浮かび上がる赤い髪を、洋平はいつまでも眺めていた。