後ろの秋霖
どういう理由かはさっぱり分からんが、雨の日は背中の古傷が痛む。
花道は、くちゃくちゃになった掛け布団に足を乗せ、左手の窓の方を向いて煎餅布団に横たわりながら、窓を打つ雨粒をぼんやりと眺めていた。 波飛沫のように窓を濡らす雨は、今朝から勢いが衰えることはない。やや痛む背中を庇うように、無意識に丸めたまま静止した彼の頭は、 今日の天気と同じく鬱屈としていた。憂鬱の原因はその天気にあった。
もし晴れていたら彼は今ごろ、洋平と出かけていたのだ。
誘ってきたのは洋平だった。曰く、日曜の昼、バイト終わりに何となく原付に乗って海沿いの町を走っていたら、 建ち並んだ家屋の中でぽつねんと、鉄網の壁に囲まれた公園を見つけたらしい。土とコンクリートの割合が一対三の敷地の上には遊具は何も無く、 一方には数本の葉の少ない樹木とその真下に一基のベンチが、もう一方には出入口付近に水飲み場、 そしてその奥の真ん中にバスケットゴールが据えられていたと言うのだ。見たところ、 地面の上に舗装されたラインの白さからここ最近建ったと思われる。少し遠いが、原付に乗って走れば一時間はかからない。
「来週の日曜日は部活が休みなら、そこで練習したらどうだ?」
花道は二つ返事で答えた。
その結果がこれである。
花道の希望を打ち砕かんと降る雨は、彼を嘲笑っているかのようだった。
外出が決まったあの日の後、お馴染みの三人も誘ったが全員が外せない用事──天才の練習より駅前の店の新台のほうが大事とは一体どういう了見だ?──のため、洋平と二人で行くことになった。
気持ちを無下にされて悪態をつきつつも、二人きりであることには何の不満もなかった。 とにかく洋平といると心地がいいのだ。まるで、自宅にいる時のような安心感だ。会話はなくても飽きることがない。
それから日曜日までの間、花道の心はいつもよりも弾み、鼻歌の頻度も増えた。そのことを洋平に揶揄われたりもした。
花道は日曜日が晴れると信じて疑わなかった。と言うよりも、夏が終わり、仲秋の風が吹く清々しい青空が連日続いて、 彼の頭からは雨という単語がすっかり忘れられていた。天気予報を見る習慣のない彼は、降水確率70%という数字など知りもしなかったのだ。
故に浮かれた分突き落とされた時の落差は激しい。止まないノック音に目を覚まし、 音のする方を見つめて仰天し、覚醒とともに次第に感じる背中からの鈍痛に、これは揺るぎない現実だと理解した。
生まれながらにして気性の激しいこの男は瞬発的に怒りを顕にしたが、残念ながら相手はお得意の頭突きが通用する類のものではない。 吐き捨てた罵倒と振り上げた拳は行き場を失い、背中もそれに合わせて痛むので大人しく床に寝転び、同じく生来の内向的な性質で、 発散されることの無い苛立ちを増幅させては心中で燻らせていた。
おぞましいまでの退屈。花道は、バスケットに出会うまでの自分がこういう時にどう過ごしていたのかを思い出せなくなっていた。 一秒一秒が引き伸ばされている感覚になる。秒針を刻む時計の音はこんなにも長かっただろうか。
雨音とホワイトノイズが流れ、湿気の混じったもったりと重たく微睡んだ空気が室内に充満していたが、 彼らはたっぷり八時間眠った花道から睡魔を引き出すことはできず、ただ無気力感と些かの絶望を与えていた。
耐えかねて、花道は首だけを動かして祈るように時計を見やったが、前回見た時からまだ十五分も経っていなかった。 短針は数字の九から右に僅かに切っ先を逸らしている。あと三十分もしたら洋平がマフラー音を響かせて自宅前に現れるはずだったのに。
彼の家に中止の旨を伝える電話をする必要は無いだろう。今はそれをする気力も無いのだ。
花道はこの永遠にも思える倦怠の中で、死んだように横たわり意識を失うのを待っていた。
しかし健康的な肉体は生きている証拠を叩きつける。ふいに肚の中で空気の塊が生まれるのを感じた。 それは大きく膨張したかと思うと、唸り声を上げて萎んで消えた。いつもの朝餉の時間から大幅に時間が経ち、胃袋がとうとう暴れだし初めた。
花道は鈍い脳みそを働かせて考えた。
腹減った、味噌汁作んのだるいな。昨日の残りは……昨日全部食ったんだった。米だけか……まあふりかけあるしいいか。
前日の、希望に満ち溢れていた時分に、力を蓄えようと張り切って作った料理を残らず平らげた己を恨みもしない。 空腹特有の不快感が胃の中で蠢くが、身じろぐだけで痛む体をこれ以上動かせたくなかった。彼は泣き止まぬ胃袋を残酷にも、あたかも存在しないかのように放置した。
雨音に交じって、遠くでバイクの走行音が聞こえる。エンジンが故障しているのか、妙な音を立てていた。聞き覚えのあるその音に今の花道は気付かない。
朝餉の支度に連れられて、その他の事も花道の頭に浮かんだ。まともな食材の無い冷蔵庫、溜まった洗濯物、カビの目立つ浴室……。 日頃の忙しさを言い訳に、後回しにしていたそれらが彼の体に重くのしかかる。花道は大きくため息をついた。
吐息で舞い上がった埃が鼻腔をくすぐったのか、むず痒さに襲われて花道はくしゃみをした。 声は六畳半の和室からすぐ隣の、襖による隔たりの無い台所と居間とが合体した室へと響き渡り、霧散した。 くしゃみで大きく痙攣した体が疼き、堪らず顔を顰めた。
くしゃみをしても一人。いつもは感じなかった(感じないようにしていた)孤独感が背後に忍び寄り胴に腕を回す。
いっそ惨めさに身を浸らせて、この孤独を抱き締めてみようか。彼はもう諦めていた。 絶えず痛む背中と気持ちの悪い肚の中も、どうでもよかった。頭の中がぎっしりと何かで満ち満ちて重くなる。 ようやく現れた睡魔が彼を包みこもうとしている。次第に音がぼやけていく。彼はおもむろに目を瞑り、 冷たく荒んでいながも穏やかなほどに静かな暗闇に潜り込む。その闇の中は懐かしい。
この場所には数年前、よく訪れていた。
花道が意識を深く沈めようとした瞬間、ふと静寂を切り裂いてインターホンが鳴り響き、彼は現実に引き戻された。 眠りから覚めた時のように鈍重な体で、気怠げに寝返りを打って仰向けになると、首を右奥の玄関扉に向けた。
次いで軽いノック音。
「花道ー?起きてるかー?」
聞き馴染んだ声に花道は反射的に身を起こした。
感情よりも先に体が動いていた。
もう一度名前を呼んで、インターホンを押そうと男が指を伸ばすより前に花道は勢いよくドアを開けた。
「洋平!」
あわや外開きのドアに激突する寸前だった男─洋平は驚きの声を漏らして間一髪でそれを避けると、 原付のキーを持っている手を挙げて軽快に挨拶をした。もう片方の手にはレジ袋を提げており、中にはたっぷりのスナック菓子とペットボトル飲料と雨水が入っている。
彼は、膝丈まである透明なビニール製の安価なレインコートを、フードだけ脱いで身にまとっていた。
「死ぬほど暇だろうと思ってよ」 降りしきる雨音に負けないよう声を張り上げる。 レインコートのボタンをブチブチと乱暴に開けて、この時期にはいつも着ている花緑青色のジャケットの懐から一本のビデオを取り出した。 「この前気になってた映画、借りてきたぜ。することねーなら一緒に観ようや」
それはいつの日だったかに他愛のない会話の流れで挙げたタイトルだった。有名なスタジオが作った、飛行艇に乗る豚が主人公という何とも変てこな映画だ。
洋平は俯いて地面に靴裏を擦り付けるように右足首を動かせた。右半身の膝から靴までが不自然にぐっしょりと濡れている。 彼はそこを見ながらため息混じりに言った。
「行く途中で車に泥水引っかけられちまったよ。運がねぇよなぁ」
へらへらと笑う洋平を黙して見つめていた花道は堪えきれないように顔を綻ばせた。
「ンな濡れたままで家に入れねーぞ!さっさと雨合羽とズボンを脱げ!」 花道は豪快に笑うと洋平の手からレジ袋をひったくった。揺さぶられてレジ袋に付着した水滴が飛ぶ。
レジ袋の中をガサガサとまさぐって中身を吟味し、大股で部屋に戻る。後ろで洋平がドアを閉める音が聞こえた。すると先程までの弾丸のような雨のボリュームも少し落とされる。
雨音はもう気にならない。もはや古傷など痛くも痒くもなかった。