初デート

冷蔵庫を何度も開けたって、中にある食材が増えるわけでもあるまい。

徒に電力だけを消費する行為に、花道自身も苛立ちを覚えていた。しかし無意味だと分かっていながらも止めないのは、 そうやって体を動かしていないと、気もそぞろで居ても立っても居られないのだ。

冷蔵庫の低い稼働音と鈴虫の軽やかな鳴き声が重なって聞こえる。静寂が音の響きを良くしているのか、 気が立って微かな物音に過敏になっているだけなのか、いずれにせよ花道にはそれらの音が喧しかった。

時刻は丑三つ時を過ぎ、普段ならば泥のように眠っているはずの時間帯に、花道は起きていた。

眠れないのだ。布団に入って待てど暮らせど睡魔は現れない。 じっとしていられないので床の間と茶の間を行き来しては時間が過ぎるのを待った。 時折、明かりも点けずに洗面所の鏡を覗いてはシルエットだけの己を見たり、先刻は余裕のない表情を浮かべていたのに今度は打って変わってニヤニヤと笑みを顔に貼り付けている。

様子のおかしい男が独り、真っ暗闇の古ぼけた木造アパートの中に居た。

自分の異状に花道自身も気付いているようで、彼は心中で、異変を招いた相手に繰り言を吐いた。

――洋平のバカヤロー……

花道は、昨日の洋平の顔を脳裏に浮べた。自分を見上げて口元に微笑みをたたえ、彼は口を開く。

「明日デートしようか」

秋寒の空の下、橙色に包まれた帰り道を洋平と歩いていた時だった。

中間試験を控え、昨日から部活動が禁止になった。だから夕方に帰るのは久しぶりで、カラスの鳴き声や小学生たちの戯れる声、 民家の窓の前を通り過ぎる時に漏れ聞こえるテレビ番組の音声など、夜とはまた違う活気を見せる町の中を歩くのは存外に楽しかった。 傍らに洋平もいたからだろう。今や親友だけではなく恋人にもなった洋平と連れ立って歩けるのは、何度目だろうと嬉しい。 肌寒い秋の風が吹き付けても、花道の心は春の陽射しのように暖かかった。

木造建築の家屋の横を通りがかる。するとカレーの濃密な匂いが漂ってきた。花道は堪らず「あーカレー食いてー!」と声を上げた。

「バカ、聞こえるだろ」口ではそう言いながらも本心から諌めているわけではない洋平の、柔らかな笑みに斜陽が射し込んでその輪郭を溶かす。

橙に染まる洋平の顔を見ていると、花道は無性に愛おしさが込み上げてきて、つい目線を逸らして一言、「暇だ」と呟いた。

「試験前って部活禁止ですることねーから暇なんだよなー。明日の土曜日は学校も休みなのによぉ」 そう続けて、花道は退屈そうに頭の後ろで手を組んだ。

洋平はポケットに手を入れた。何事か考えているのかしばらく黙したあと、ようやく口を開いた。

「それなら……」

そして花道にあの言葉を言ったのだった。

洋平の誘いに花道は思わず歩みを止めて、組んだ手を解いた。三白眼の鋭い目付きを丸く開いて洋平を見つめる。 花道に合わせて立ち止まった洋平は、先程と寸分違わぬ穏やかな表情で花道を見つめ返していた。

何の事は無い、自分たちは恋人同士なのだから休日のデートくらい当たり前だろう。違うか?

まるでそう言いたげな洋平の余裕ぶっている態度――と、花道は受け取った――に彼は、ここで自分だけが照れて取り乱すのは何だか癪に思えて、 「デートって、何するんだよ」と言って歩き出した。火照る顔を隠すために夕陽の方を向きながら。

洋平は花道を横目で見ながら答えた。「別に、いつもと変わんねぇよ。どこかで飯を食ったり、ゲーセンに寄ったり――」

「パチンコしたりとか?」

花道の合いの手に爽やかに笑う。「さすがにパチンコはしないなぁ」

「お前の練習に付き合ったっていいぜ。見てるだけだけどよ」洋平はポケットに手を突っ込んだまま脇を開いて提案した。 しかし花道は口を閉じて目線を右上に逸らすと、かぶりを振った。

「いや……いい、明日は練習しねぇ。天才の弛まぬ努力も明日だけは特別にやめておく」

オンオフをちゃんと切り替えられるのも天才たる所以だからな! そう花道は都合のいい台詞を吐いて陽気に笑った。 或いはそう振る舞うことで高鳴る鼓動を誤魔化しているのかもしれない。

花道に笑い返し、洋平はとんとんと集合時間や待ち合わせ場所を決め、他愛のない雑談に移った。 そして自分の家がある通りに差し掛かったので話を切り上げ、花道の方を向きながら後ろ歩きで通りに入った。

「それじゃあまた明日」

花道に別れの挨拶として軽く挙手をして背を向ける。

手を挙げ返し、落日に向かって歩く洋平の真っ黒な背中を見つめていた花道は、くるりと踵を返すと自らも家路へと歩みを進めた。

赤蜻蛉が飛び交う空き地を通り過ぎ、塀の上をはみ出る柿の枝葉をくぐって、ふらふらと危なげに自宅に向かう。

覚束無い足取りだが、彼の心は至って平静だった。約束を交わしている時はあれほど色めきだっていたのに、 独りになった途端に不思議と落ち着きを取り戻している。洋平との会話の一部始終を記憶の中で何度も再生させるが、まるで夢の中の出来事のように実感が湧かない。

自宅に着いても尚、妙にぼんやりとした感覚のまま、花道はつつが無く家事をこなして夕方を過ごした。 しかし夜が近付くにつれて段々と浮き足立ち、今では眠ることすらできなくなっている。

夏の初めに、当時密かに思いを寄せていた現バスケット部マネージャーと新しいバスケットシューズを買いに行った時も、 確かに心が弾んで落ち着かなかった。だが今のこの緊張はあの時のとは比べ物にならない。

あの時はデートのようなものだったが、今回のは紛れもなくデートだ。 自他ともに認める恋人同士――と言っても自分と洋平の関係を知っているのは、お馴染みのあの三人だけだ――のデートなのだ。

そうか、デートか……。

好きな人との登下校だけでなく、デートまでするようになった自分の成長に、 花道の胸には熱くなって込み上げてくるものがある。五十回目の失恋にしてようやく真実の愛を見つけたのだ。

しかしやる事は今までと変わらないらしい。洋平の言う通り、何ら特別なことはない、いつも二人で遊ぶ時にする内容と同じだ。

なのに、なぜその行為に「デート」と名前が着くだけでこんなにもドキドキするのか。胸がときめいて仕方がない。

花道はまた冷蔵庫を開けた。中を見つめる。卵が無い。豆腐が無い。野菜も少ない。 作り置きの煮物がぽつねんと置かれている。棚板に付着している汚れが嫌に目につく。 冷蔵庫が放つ橙色の明かりがより目を冴えさせる。漂う冷気がかじかんだ足の爪先を撫でる。冷蔵庫を閉める。

花道は舌打ちをした。

このオレが洋平にこんなにも心を乱されていることが気に食わない。アイツもオレと同じ状態じゃないと気が済まない。 このオレの安眠を妨害するなんてコイビトの風上にも置けねぇ!

心の中で口汚く罵った花道は頭を掻き毟り、恋人であるはずの洋平を恨みがましく思った。

かと思えば洋平とのデートに思いを馳せて欣喜雀躍としている。久しぶりの休日を大好きな洋平と過ごせる幸せに頬をだらしなく緩ませ、 間の抜けた笑い声を漏らす。そうして我に返っては浮かれている己に気付いてまた恋人を憎らしく思い……。

もはや誰にも、自分でも己の状態を止められることはできない。

花道は、こんなのはいつものクールなオレじゃない!と心のうちで叫んだ。そして冷蔵庫に向かい直し、何十回目かの行為を繰り返すのだった。