それはきっとテレパシー
賑やかな昼休みの教室の隅で、花道は独り静かに座っていた。
珍しく大人しい彼の顔は、喧嘩に明け暮れていた頃の癖で染み付いた、因縁をつけるような虫の居所が悪そうな面で近寄り難い雰囲気を醸し出しており 、だがその顔つきにはすっかり慣れたクラスメイトたちは、どうせまた脳内で一人劇場でも始めているのだろうと、少し距離を置いて、 自分の机を合わせて談笑に興じたり昼食を取ったりとめいめいに昼休みを満喫していた。
彼らの思う通り、目を閉じて腕を組む、そのいかにもな思考の構えを取っている花道は、あれこれと足りない頭を使っていた。というのも昨日の夜、 テレビを見ていると、はたとあることに気づいたのだ。
それは、どうにも自分の考えていることと洋平のやろうとしていることが一致する。偶然や気のせいだと流せないほど、彼にはそう思うに足る記憶が沢山あった。
忘れもしない中学三年の初夏の頃、以前にも増して父親との折り合いが悪くなっていた花道の前に、ある日の夕方、原付バイクに乗った洋平が現れた。
兄からお下がりで貰ったと言う洋平の姿を見るや花道は乗せろと言付けた。元より見せびらかしに来た洋平は、言うと思った。どこに行きたい?と尋ね、 花道の「どこでもいいからできるだけ遠くに連れて行って」 という言に理由も聞かずに従った。
花道は座席の後ろ半分に跨るとリアキャリアに指をかけて身体を固定した。花道がしっかりと座ったことを確認すると、洋平は記念すべき無免許運転の初日の筈だが、 慣れた手つきでアクセルをひねり、マフラー音を響かせて発車した。
馴染み深い海岸に沿った道路をどこまでもどこまでも走り、自分たちを通り越していく江ノ島電鉄を眺めた。圧倒的なスピードで追い抜いていった青緑の車体は、 清々しい空の下で駆ける馬のように、堂々として見えた。
太陽が幾分か傾き、棚引いた雲の下部が薄らと橙に染まった頃に洋平は「ここら辺でいいだろ」 と駐車場に原付を停めた。やや歩いて海岸に降り立てば、 そこは代わり映えのない景色なれど、花道には新鮮に感じた。
他愛のない話をしながら砂浜をゆったりと歩き、砂浜に横たわる流木を海に投げ捨て、花道が地面に腰を下ろして潮風を浴びていると、早くも陽は海に浸ろうとしていた。
「もうそろそろ帰るか」
洋平は花道の斜め後方に立って、伸びをした。
花道は返事もせずに、膝頭を揃えると手で抱え込んだ。
帰りたくない。花道は胸中で呟いた。
もうしばらく、この空を無心で眺めていたい。そうじゃなくてもあの場所には戻りたくない。
ふいに、潮風とはまた違う、熱を持った柔らかな空気が頬をそっと撫でた気がして花道は振り返った。そこには洋平が立っているだけで、玉響に彼と目が合ったが、花道はすぐに首を戻した。
「行こう、花道」
洋平の言に今度は花道も低く返事をした。
名残惜しそうに立ち上がり、歩道へと続く階段を上って原付が停めてある駐車場へと向かうまで、二人の間に会話はなかった。
まず洋平が座り、次いで花道も原付に跨ろうとした既で洋平が口を開いた。
「花道さぁ、この後も暇? 泊まりに来ねぇ?」
背を向けたまま尋ねた洋平に、花道は砂浜に座っていた時と同じように返事をした。しかしその声は些か勢いづいて発せられた。
洋平の腰に手を回して寄りかかり、花道はぼんやりと空を眺めていた。家に着くのは七時かな、もしかしたらガス欠になるかもしれねー、 荷物は取りに行くんだろ? 時折話しかけてくる洋平の言葉に生返事をしながら、風を切って進む原付の走行音と風の音に微睡むように細めた目で、 江ノ島のすぐ隣、朧にかすむ山々に沈んでいく夕日をずっと見つめていた。
今でも脳裏に鮮明に浮かぶあの懐かしい夕映えを、我に返って振り払うと、花道は再び他に思い当たる節は無いかと記憶の棚を探った。 楽しかったこと、悲しかったことと分類別にラベルが貼られた引き出しを開け、どこにも振り分けられなかったものが詰め込まれた箱を乱雑に漁ると、 該当しそうなものが沢山見つかった。例えば好きだった子に振られたあと、冷やかされて頭突きをお見舞し拗ねた手前、 気を取り直しても自分から遊びに誘えなかった時。例えば喧嘩をして、薄々と自分に非があったと認めたが謝れなかった時。 例えば夏休みに、洋平が彼の母親の実家に泊まりに行くと話して、それが無性に羨ましくて仕方がなかった時。他にも思い返せば枚挙に暇がない。 それら全てが押し並べて自分が心のうちで抱いた欲求が、そのすぐ後に洋平の口からも出てくるという流れだ。
いくら内向的な花道と言えど、口を開く直前の洋平の仕草には違和感を覚えた。そして昨日今日と頭が冴えている花道は、 ふとある共通点に気付いた。それは洋平が提案する前に、必ず自分を見ているということ。
自らを格闘技の天才と称する花道は野生の勘が鋭く、他者から向けられる殺気を素早く感じ取れる。 まだバスケット選手としては未熟な彼が俊敏に行動できるのは、敵対する選手から発せられる気迫をいち早く察知できるからでもあるのだ。
しかしその類の視線とはまた違うものを感じる時が花道にはあった。上手く説明できないが、殺気を向けられた時に感じる、 あの鋭く冷たい刃物の切っ先が背中に触れるような感覚ではなく、まるで羽毛が肌をなぞるような、擽ったい感覚だった。
加えてそれは大抵、洋平が自分を見ている時に味わっていた。
擽ったくて妙な感覚だったが不快ではなかったし、心のどこかで「そのままにすればいい」 と己に囁きかける声がしたので、敢えて気に留めないでいた。
どうやらこの視線が、今回の不審な点と深く関係しているようだ。去年の夏、振り向きざまに目が合ったのも、偶然ではなかったのだろうと、今になって思う。
不自然なほど自然に、さも自分がまず初めに思っていましたとでも言うように、チラと花道を見遣ってから口を開く洋平。
なぜ彼はわざわざそんなことをするのか? それについて、花道は既に結論を出していた。過去の事例から導き出されるものはただ一つ。
──しかし、なぜもっと早くに気付かなかったのだろうか、いや、こんなことすぐに気付くわけがないのだ。
この桜木花道は超能力者であり、テレパシーを使って洋平を操っていたことに。
つまり自分が心の中で思ったことがテレパシーとなって、洋平の脳に伝わると彼は催眠状態に落ち入り、あたかも彼自身が求めたように行動していたのだ。
洋平が花道を見ていたのはある種のスイッチのようなもので、それが催眠術にかかるための重要なステップだったのだ。
きっとそうに違いない。オレは実は天才超能力者なんだ! 昨日テレビで超能力者の番組を観てから分かったことだ。
だが同時に花道は少し落胆していた。
喜ばしいことだが、惜しむらくはどうやらこの超能力を使える相手が洋平限定のようなのだ。
これがルカワや相手チームであれば、試合中にひとたびド派手に失敗しろと念じさえすれば、この天才バスケットマンの栄光の道も易々と進むことができただろうに。
いや、人とは違う力を手にしたのだから贅沢は言っていられない。洋平をオレの下僕として意のままに操れるだけで十分だ。 どの道オレは必ずオレの望む勝利を手にするし、あんなキツネなぞすぐにギッタンギッタンにして我こそが日本一、いや世界一の選手に……
今しがた腕を組んでウンウンと唸っていた花道だが、今度は自分の秘められていた才能に優越感を抱き、めくるめく己の未来に緩みきった笑みを浮かべていた。 傍から見れば花道の様子は不気味なことこの上なく、彼を取り囲む空間はもう一回り大きくなり、まるで結界が張り巡らされているように彼に近付く者は誰一人としていなかった。
──たった一人を除いては。
「なーにひとりでニヤニヤしてんだよ」
からかうように声をかけて、洋平が花道の前に現れた。
彼は花道の前の席の椅子をぐるりと半回転させて横向きに腰を据えた。彼の脇には深緑色の水筒が挟まれており、それを抜き取って花道の机の上にドンと置くと、深く息を吐いて壁に凭れかかった。
「いやぁ、何とかゲットできた」
そう言ってやや乱れた髪型を左手で整えながら右手を上げると、その手にはラップに包まれた焼きそばパンが握られていた。
それは一階のホールにある購買部で入手した物だ。一学年に十クラスもあるような人数規模の大きな学校であるにも拘わらず、 どういう意図か昼休みの時間にしか販売されていないので毎日購買部のレジ前は数多の生徒がひしめき合って阿鼻叫喚の地獄と化している。 中でも焼きそばパンは揚げパンやカレーパンと並んで一際人気が高く、 昼休みのチャイムが開始のゴングとなって勇猛果敢にして血気盛んな挑戦者たちは燦然と輝く獲物を手中に収めようと熾烈な戦いを繰り広げていた。
つまり洋平は今回の戦いの勝者なのだ。普段は学校への道程にあるコンビニエンスストアで昼食を買っていた彼だが、 今朝は寝坊してしまいその機会を逃していた。入学してから初めて参加した戦いでありながら、彼は軽い身のこなしと小さな体躯に秘められた力で勝利を収めたのである。
授業が終わりチャイムが鳴る前から足早にホールへと駆けて行かれ、そうして今に至るまで一言も洋平と会話をしていなかった花道は、 話しかけられても尚も黙していた。その目はじっとある一点を見つめていた。洋平の手に収められた焼きそばパンである。 花道は洋平が教室に戻ってくる間に既に食事を済ませていたが、しかし、ほんの数分足らずで昨夜の残り物を詰め合わせた弁当を平らげた彼の胃袋はまだ満たされず、 眼前にある焼きそばパンに早くも唸り声を上げていた。
花道は思った。今こそこの超能力を使うべきだと。昨日の今日に己が超能力者であると自覚したばかりで、まだその力をはっきりと確認していない。
花道は膝に手を置いて居住まいを正すと、正面から洋平を睨めつけて一心に念じた。
オレに寄越せ、オレに寄越せ、オレに寄越せ……
しかし洋平は花道には目もくれずに、他愛のない話を続けてペリペリとラップを剥がしていく。
……あのバカ共も参戦してたぜ。チュウは瞬殺、大楠はあと少しだったんだがなぁ。高宮め、あんな奴は購買部を出禁にしたほうがいいよ。……
あっと言う間に半分も剥がした彼に花道は焦り、洋平の言に耳を貸さず、更に強く念じた。血がごうごうと頭を目がけて走り、 顔は髪色と見境がつかないほどに赤く染まって、脳みそがグツグツと煮え立つのを感じる。膝に置いた手に力が入って、膝頭を砕かんとする勢いで強く掴んだ。
オレに寄越せ、オレに寄越せ、オレに寄越せ!
「いただきます」 やや間延びした言い方で開口し焼きそばパンを口に運ぶ。その寸前、洋平は横目で花道を見て手を止めた。 花道は瞠目した。大魚がようやく釣り針に食いついたのを息を殺して待っていた釣り人のように、汗の滲んだ手に力を入れた。 喜びで胸が踊る。しかし洋平は怪訝そうに眉を寄せるとパンに食らいついた。
「なんでくれねーんだよ!」
予想外の結果を目の当たりにした花道は、余りにも素早い反応で怒りを顕にすると机を叩いて立ち上がり怒号を飛ばした。 あちらこちらから事情を知らぬクラスメイトたちの仰天して上げた小さな悲鳴が聞こえる。
洋平もまた花道の突然の激昂に肩を大きく痙攣させたが、すぐに我に返ると彼も負けじと席を立って声を張り上げた。
「うるっせーな! いきなりなんだよ!」
「オレに寄越せよ!」
「やるわけねーだろ! 頭沸いてんのかお前は!」
口汚く罵る洋平に、今にも頭から湯気が立ち昇りそうな花道は、いいから寄越せと、食べかけの焼きそばパンを奪おうと意地汚くも腕を伸ばした。 しかし洋平はその攻撃をひらりとかわすと、急いで口の中に放り込み全て収めた。虚しく空を掴んだ花道は驚愕の声を上げ、ショックで倒れ込むように椅子に座った。
「お、お前……オレの焼きそばパンを……」
お前のじゃねぇよ。洋平は一刀両断に切り捨てると、腕を組んで花道に問いかけた。
「というか、さっきすげー睨んできたけど、なんのつもりだ?」
花道は顔を顰めて唇を尖らせた。
「テレパシーを使った」
「はぁ? テレパシー? なに意味わかんねぇこと言ってんだ」 片眉を吊り上げる洋平に、花道は片肘をついた。
「オレと洋平、同じこと考えてんだもん。オレが思ったことが洋平に伝わったってことだろ?つまりオレはテレパシーが使えるんじゃねぇかなって」
花道の言葉に虚をつかれた洋平はやや目を丸くしたが、お前なぁ、と腰に手を置いて呆れたふうに続けた。
「なんでその結論になるか分かんねーけど、どうせテレビか何かを見て影響受けたんだろ。あんなのデタラメだっつーの。オレの考えてることが伝わったとか、そういうのなんて言うか知ってるか?」
自意識過剰って言うんだぜ。洋平の辛辣な発言に花道は言葉を詰まらせた。図星だった彼は小さく悪態をついて、勢いよく椅子に座った。
洋平は壁時計をチラと見た。
「もう昼休み終わるのか。あ〜あ、お前のせいでせっかくの焼きそばパンをちゃんと味わえなかったぜ」
詰るように言ってくる洋平に返す言葉もない花道は再び悪態をついたが、彼の発言で時計に目を移すと、すっかり失念していたことを思い出した。
今日は駅前のスーパーで午後四時からタイムセールがあるのだ。毎月振り込まれる生活費をやり繰りしている花道は、 馬鹿にならない食費を少しでも軽減させようと、そういったイベントには積極的に参加している。場所が駅前なこともあって、 そのスーパーはタイムセールになると大いに賑わう。鍛え抜かれた主婦たちに並んで目当ての商品を手に入れるには、開始時間前に店に到着していなければならない。
花道にとって授業をサボるなど造作もなく、良心が咎めることもないので行きは問題ないが、帰りが懸念点だった。 肉などの生鮮食品も買い込むつもりなので、一度自宅に帰らないといけない。そうしてまた電車に乗って学校に向かうことを考えると、 この天才の脚力を持ってしても五時前に始まる部活の時間にはとてもじゃないが間に合わない。今やバスケットが最優先の花道にとっては、一分一秒の遅刻すら許し難いのだ。
「間に合うかな……」
心の声が口から漏れ出る。それを洋平は聞き逃さなかった。彼は振り返って時計をもう一度確認すると、俯いて今度は花道を上目がちに見た。 花道は、どうすれば部活に間に合うかと思索を巡らせるのに夢中で、彼の視線には気付かなかった。洋平は花道の様子を認めると、 暫く黙して、おもむろに口を開けば、探るように、しかしそれを悟られないように、彼が今まで幾度となくやっていた通りの慣れた仕草で独り言つように花道に話しかけた。
「六限目の授業、数学かよ。ダルいな〜。先公もうるせぇしよォ……。……なぁ花道、サボらねぇ? どっか遊びに行こうぜ。ちゃんと部活前には戻るからさ」
洋平の言葉に花道はさっと彼に目を向けた。洋平の目を見つめ、彼もまた暫時何事か考えを巡らせ、そしてぱっと閃きが頭の中で起こりその勢いで立ち上がると、急かすように喋った。
「洋平、オレに手伝え。協力しろ。そしたら焼きそばパンのことは許してやる」
聞き捨てならない発言に洋平は眉を寄せた。
「許すだァ? 何言ってんだお前は」 しかし洋平は大人しく従った。
「何してほしいんだよ」
「オレを駅前のスーパーまで連れてけ」
花道が言い終わるや否や、にわかに洋平は自分の顔の辺りまで挙手をして口を挟んだ。
「待て、さては原付で運んでもらおうって魂胆だな? それで買い物が終わったら家まで送ってくれって言うんだろ。そしたら次は部活が始まる前に学校に戻りたいってか?」
「そうだ」 花道は当然のように頷いた。
めんどくせ〜……。俯き、ワックスで固めた髪の流れに沿うように撫で付けながら、ため息混じりに洋平は不満を漏らした。頭頂部から項へと緩やかに動かした手を首元で止めると、洋平は顔を上げた。
「オレはお前の下僕じゃねぇっての……。まぁ別にいいけど。どうせオレ今日はバイトでバスケ見に行けないし。サボれるならなんでもいいよ」
それを聞き花道は満足そうに頷き着席すると、話の終結を祝うようにチャイムが鳴り響いた。
廊下を駆ける音や、教室に広がる机を動かす音や話し声の喧騒の中、でもやっぱりオレって超能力者なんじゃねぇかなぁと呟く花道に、だからそんなワケねーだろ、と一蹴して洋平は自分の席に戻っていった。