第二章
5-1
強い空腹感に襲われ、花道は目を覚ました。
布団から少し出した腕に凍てついた空気が触れて、すぐに引っ込める。ずっと閉じこもっていたいが、このままでは飢え死にしてしまう。花道は仕方なく寒さを堪えて起き上がった。
寝ぼけた頭で朝食の献立を考え、花道はドアノブに手をかけた。扉を開けて部屋を出ると、しんとした寒さに震えが走った。まだ日の昇らない空に廊下は冷気で満ちている。
『廊下?』花道ははたと気付いた。『オレの家に廊下なんかねぇぞ?』
そしてすぐに、ここがどこかを思い出す。
花道は一瞬、部屋に戻ろうかとも思った。しかし、暁闇に浸された廊下の向こうに差し込む格子状の明かりが目に入って、誘われるように足を進めた。
光は茶の間から漏れていた。扉の向こうで微かに話し声がする。花道はドアノブを捻ると、ゆっくりと押し込んだ。
扉を開けた瞬間、暖かな空気が溢れ出た。眩い光に花道は目を細めた。目は明かりに慣れるにつれて開いて、周囲の輪郭が冴えていく。
誰かが炬燵に入って新聞を読んでいる。テレビは朝のニュース番組を映して、話し声の出所はそこだと分かった。
視線を右に動かした時、こちらに背を向ける女性に目が留まった。髪を結い、エプロンを身に着けてコンロの前に立つ女性が、子気味よい包丁の音を立てて料理をしている。鍋がぐつぐつと沸き立ち、空気は微かに味噌の香気を纏っていた。
寝惚けてぼんやりとした花道の胸に、懐かしく、どうしてか遣る瀬ない思いが染み入った。この光景を見たことがあるかもしれない。あの人はどんな顔をしていたっけ。
するとピタリと包丁の音が止まり、女性はゆっくりと振り返った。花道は彼女と向かい合った。ようやく思い出せる気がした。
女性の顔を見る、見慣れない顔だ、そうだこの人はアニキの奥さんだ。
「あら、おはよう花道くん。もう起きたの?」
妙齢の軽やかな声で彼女は訊ねた。「まだ朝ご飯できてないの。もうちょっと待っててくれる? 部屋で待っててもいいから」
「うん」花道は返事をした。しかしそうしたと彼自身が気付かなかった。
「おう花道、おはよ」
洋平の兄が新聞から顔を覗かせた。「早起きだなーお前。洋平はまだ寝てるだろ?」
問いかけられ、花道は我に返った。
「あ、オレ、起こしてくる!」花道はそう言うと慌てて茶の間を出た。
扉をバタンと閉める。目の前に広がる廊下の暗さと寒さが却って彼の心を落ち着かせた。
「起きろ、起きろよ洋平」
花道は洋平を揺すった。洋平は唸り声を上げ、身を守るように布団を頭まで被った。
「起きろって言ってんだろ!」
花道は掛け布団の端を掴むと、力いっぱいに引き剝がした。洋平が素っ頓狂な声を上げて縮こまる。
洋平は舌打ちをして悪態をつき、己を抱き締めながら花道を睨んだ。
「なんなんだよ」寝起きで鼻声が出る。
花道は掛け布団から手を離した。
「メシ! もうすぐできる! 早く行くぞ」
しかし洋平は掛け布団を手繰り寄せると、再び中に閉じこもった。布団からくぐもった声が聞こえる。
「先行けよ……オレ髪セットしてから行くから。兄貴たちにもそう言っといて」
花道は一文字に結んだ唇を少し尖らせると、腕を組んでどっかりと座り込んだ。
「じゃあオレもここで待つ」
「はぁ?」洋平が布団から顔を出した。
「お前が出るまでオレもここを動かんぞ! 分かったらさっさとセットしてこい! 四十秒で支度しろ!」
花道はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
なんの脅し文句か知らないが、どうやら本気なようだ。洋平は勝手にしろよと言おうとしたが、直前で言葉を呑み込んだ。つまり兄夫婦と三人だけの空間は気まずいのだろう。洋平はそう結論付け、それ以上は何も言わず、渋々と布団から出た。
「お待たせしました!」
花道が高らかに言って茶の間に入った。後ろには髪を綺麗に整えた洋平が続く。
「おはようございます」洋平は腕を擦りながら言った。
朝餉はとっくに完成し、ダイニングテーブルの上に空の食器が二人分、綺麗に並べられていた。
義姉は洋平の立派なボンパドールに一瞥をくれると、「準備万端ねぇ」と白い歯をちらりと見せた。
洋平は乾いた声で笑い返し、薄々感じていた苦手意識を改めて自覚した。
食卓に着くと、洋平の義姉が食器に料理を次々に盛りつけていく。
味噌汁にはニンジン、キャベツ、エノキ、ワカメが入っている。小鉢には塩筋子が、扁平な皿には焼き鮭と卵焼きがあった。
花道は小山のように盛られたご飯茶碗を、会釈をして受け取った。
「いただきます!」花道は合掌して高らかに言った。
塩辛い焼き鮭と甘い卵焼きのどちらも白米によく合った。二杯目のご飯は塩筋子と一緒に食べた。プリプリとした塩筋子が口の中で弾けて濃厚な汁を出す。それが噛めば噛むほど甘みを出す白米に絡み合い、花道は無我夢中で白米を掻き込んだ。
瞬く間に皿を空にしていく花道とは対照的に、洋平は老人のように遅々として味噌汁を啜った。辛口の味噌汁の滋味深い味わいは体の芯まで染み渡り、熱い吐息が漏れ出る。
「もっとゆっくり食えよ。行儀ワリィなぁ」
洋平はそう言って、花道と目を合わせると、自分の口の端を指して花道の口についた米粒を示した。
目配せに気付いた花道は米粒を手で摘まんで口に入れ、言った。
「だってスゲェウメーんだもん!」
「花道くんの食べっぷり、見ていて気持ちがいいわ。でも喉を詰まらせないようにしてね」洋平の義姉は微笑みつつ、湯呑に入ったお茶を啜った。
「う、ウス」
花道は頷いた。しかしそれからは妙にぎこちない動きになった。
食事を終えると、洋平の兄が今日の予定を話しだした。
「夜は鍋を食べようと思ってさ、十一時頃になったら買い物がてら出かけようと思うんだ。昼飯もどこか良い店があったらそこで食べよう」
「おー鍋! 鍋良いなぁ!」花道が満面の笑みで言う。
とんとん拍子に話はまとまり、洋平と花道は出かける時間になるまで茶の間で暇を潰した。