第一章
1
鈍色の空に寒雲が垂れ込めている朝。ほかの学校より圧倒的な生徒数を誇る県立湘北高等学校は、人いきれがしそうなほどに賑わっていた。
一月も半ばに入り、校舎の掲示板には三学期の主なイベントについて書かれた予定表や、新聞部の活動レポートなどが貼られており、 校内の至る所ではまだ冬休みが終わった絶望感を引きずっている者が多数見受けられた。
窓からの隙間風と生徒たちの声が騒々しい廊下の真ん中を、彼らから頭二つ飛び抜けて背の高い男が堂々とした足取りで歩く。 上着のボタンをすべて外して前を寛げた学生服を着たその男は、新年を祝うのに打ってつけの鮮やかな赤い髪色をしていた。 髪は短く、手入れのされていない芝生のように、刺々しく毛先を天に向けている。
その赤髪の男──桜木花道は、朝の練習を終え、大股で自分の教室に入っていった。
教室のロッカー側の扉から入り、そのまま真っ直ぐ、窓際に面した一隅にある自分の席へと向かう。
するとそこに、花道の前の席に座って、彼の机に頬杖をついている洋平がいた。
「よぉ」
洋平が言って、二人は軽く挨拶を交わす。
運動して火照った体を冷やすため、花道は窓を少し開けた。しかしすぐに、一つ席を挟んで談笑をしていた女子たちからの非難を浴び、渋々と窓を閉める。
舌打ちをしてどっかと座ると、待ち構えていた洋平が出し抜けに話を切りだした。
「今度の三連休に北海道に行かねぇ?」
「北海道?」突然の誘いに、花道は聞き返した。
おう、と洋平は頷いて続けた。
「昨日の夜、兄貴から電話が掛かってきてさ。暇だったら遊びに来ないかって誘われたんだ」
花道は机から身を乗り出さんとする勢いで言った。「アニキに会えんの⁉」
花道の輝く瞳を見つめ、洋平はしっかりと頷いた。「会えるぜ」
洋平には兄がいた。花道が中学に入り洋平と友人になったすぐあとに、当時高校三年生だった洋平の兄と知り合った。 花道はすぐに彼に懐いた。洋平に似て気さくで面倒見がいいが、洋平のように冷やかしてこないところが気に入った。 しかし花道が進級した頃、洋平の兄は就職のために少し離れた町に引っ越したので、つき合いの頻度がすっかりなくなってしまった。 そんな彼は数カ月前に婿入りをして北海道に引っ越し、今は配偶者とその両親の四人で暮らしている。
そのことを以前、洋平から言伝に聞いたのを思い出した花道は、喜びもつかの間に顔に躊躇いの色を浮かべた。
「……でもアニキ、新婚さんなんだろ? オレが行ってジャマじゃねぇかな」 右手で背中を撫で下ろす。机の右下のほうに刃物で刻んだ「天才」という文字をじっと見つめた。
洋平は鼻から深く息を吐き、机の上に置いた手を胸の位置まで水平に上げた。
「気にすんなよ。もし花道も暇だったら誘ってきてくれないかって、兄貴が頼んだんだ。 お前に会いたがってるってことだよ」言葉の節々を強調して言い聞かせるように話す。
洋平の話術にすっかり丸め込まれ、花道は顔に安堵を滲ませた。
「そうなのか」
聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりと呟くと、瞬く間に本調子の笑顔に戻る。 「そうかそうか! アニキがそう言ってんなら仕方ねーな!」
洋平は頼み込むように話した。
「……兄貴が自分の奥さんに花道のことを話したらしくて、奥さんも会いたがってんだとよ。どうだ? 一緒に来てくれねぇか?」
待ち望まれているのは全く悪い気がしない。花道は嬉しさと照れくささにだらしなく口元を緩ませた。 それに洋平の兄には久しぶりに会いたい。今や彼はすっかり旅行に行く気でいた。
「アニキがそんなにこのオレに会いたがってんなら、会わねーと可哀想だよな! まったく、人気者も困りものだぜ……。 それにしても、この天才バスケットマンに会えるとは、君のアニキも幸せ者だねぇ」
ぐふぐふと笑い、ふんぞり返って仰々しく話す花道に洋平は小さく微笑みを漏らした。
つくづく一筋縄ではいかない男だ。考えが顔に出やすいが、すぐにコロコロと変えてしまうので手に負えない。 単純明快にして千変万化、それでいて天邪鬼。さながら春の天気のようだ。──だからこそ見ていて飽きないのだが。
洋平は右の前腕を机の上に寝かせ、身を寄せて昨夜の出来事を話し始めた。
「それでよ、オレが兄貴に、いつ行けばいいのかとか、日帰りなのかどうかとか聞いたんだよ。 そしたら兄貴、『別に日帰りでもいいけど、泊まれるなら二泊三日で家に泊まりにきてほしい』って言いだしたんだ」眉をひそめて、あからさまに怪訝な表情を作る。
「確かに今、兄貴の家は北海道にある。でも正確には奥さんの親の家だろ? そこにその人たちと会ったこともないオレらを泊めようなんて、アイツは何様だって思わねぇか?それも二泊三日だぜ?」
「それはそうだな」花道は素直に頷いた。
「もちろんオレは兄貴にそう訊いたぜ。婿養子の分際でもう好き勝手に決めてんのかよってな。 そしたら兄貴、妙にもごもごと訳を話し始めてさ……」
洋平は、自分の兄がしどろもどろに話す様子を、受話器を持つ振りも交えて真似した。
「二泊三日を勧めているのは俺じゃなくてお義父さんなんだよ。お義父さんとお義母さんは三連休に友人と熱海に行くんだけどさ、 俺がなんとなく、いつか洋平と花道を北海道に呼びたいって話をしたら凄い食いついてきて。是非ともこの家を使いなさいって言って聞かないんだよお」
洋平の誇張された腑抜けた顔に、花道はカラカラと笑った。彼の脳裏には、 洋平の兄がそんなふうに情けない顔をして喋っているのがありありと浮かんでいるようだった。
洋平は花道の様子を横目で見やり、大いに満足した。そして顔を戻すと話を続けた。
「どうやら兄貴は奥さんのご両親にめちゃくちゃ気に入られているらしいな。 ……でも、兄貴にそう言われてもやっぱり知らない人の家だし、どうしようかオレも迷っていたんだけど、 電話越しに遠くからその親父さんの声が聞こえてきてさ。急に兄貴と電話を代わって話しかけてきたんだよ。その勢いが凄いのなんのって」
洋平は昨夜のやり取りを思い出して、疲労を顔に浮かべた。
「いろいろと挨拶とか自己紹介とかまくし立てられて……君のお兄さんは非常に気持ちの良い男だよとか、 弟である君も大切な家族だ、お友達も連れて、遠慮せずに泊まって来なさいだとか言われちゃったよ。 さすがに家主にそこまで言われちゃあ、こっちも断りきれねーよなあ」
長い話を終えた洋平は深くため息をついた。
「スゲー親父さんだな」花道は愉快そうに目を細めた。
そしてふと、彼は何かを思い出して呟くように言った。「アイツらは三連休に何するんだろうな」
アイツら、とはかつて「和光中三バカトリオ」と呼ばれていた彼らのことだろう。 すでに三人の予定を知っていた洋平は目を瞑ると、椅子の背もたれに体を預けてかぶりを振った。
「高宮は家族と旅行、チュウはバイト、大楠は──」
サエコちゃんとお泊りデートだとよ。
洋平の発言に花道はやにわに舌打ちをした。「ケッ、あの野郎」
「サエコ」とは大楠の彼女だ。強気な性格で、不良に絡まれていた彼女を大楠が助けてから、 とんとん拍子に関係が進んでいき、今では家に泊まりに行くまでに進展している。
これが花道にはまったく面白くなかった。
第一に、彼は自分の友人に恋人ができるのを喜べるような出来た人間性ではなかった。
第二に、大楠が彼女を作ったのは花道がリハビリ中の出来事で、自分が汗水垂らしてリハビリに励んでいる間、 呑気に恋愛に現を抜かしていたことを彼は未だに許していなかった。
最後に──これが一番大きな理由だ──サエコは翔陽高校の生徒なのだ。
「よりによって敵の高校の女の子とつき合うなんて……アイツにプライドはないのか!」
「まあまあ」洋平は花道をなだめた。「そのサエコちゃんがバスケットにちっとも興味が無くてよかっただろ。 でなけりゃ、アイツはどっちの高校を応援するかで、愛しのサエコちゃんと別れる羽目になるかもしれなかったんだからよ」
「へっ、そっちのほうがいいね!」花道はそっぽを向いた。
普段の大楠には変わりなく接するが、彼の恋人が絡むと途端にへそを曲げる。 竹を割ったような性格に見えて非常に執念深い花道の、そんな態度に洋平はもう慣れていた。
「そんなことよりも」洋平は話を戻した。
「いろいろと準備しねーとな。北海道には飛行機で行くから、搭乗券も買わないといけない」
「飛行機かぁ……オレ、人生で初めて乗るぜ」
花道はいささかワクワクしているようだった。その様子に洋平は微笑む。
「往復の飛行機代は兄貴が出してくれるんだってよ。ありがてーよな」
「よく知らねーけど、飛行機代って高いんじゃねーのか? そんなにしてもらっていいのかよ?」
至れり尽くせりの歓待に、さすがの花道も困惑していた。
恐らくその搭乗券の代金とほぼ同じ値段がしたであろうバスケットシューズを、 タダも同然の値段で買い取った人間の口から出たとは思えない発言に、洋平は呆れながらも、至極当然といったふうに首を横に振った。
「いいのいいの。金のない高校生を遥々と北海道まで呼ぶんだぜ?それくらいはしないとむしろ大人としての沽券に係わるべ」
洋平が言い終わる前に朝礼開始のチャイムが校舎内に鳴り響く。
「それじゃあまた詳しいことは今度話すよ」
そう言って洋平は自分の席に戻っていった。
花道は元気よく返事をすると、体力温存のために机に顔を伏せて眠りにつく準備をした。 顔を窓のほうに向け、分厚い雲がもったりと広がる曇天を眺める。果てしない空の、その向こうにある北海道に思いを馳せて、花道は目を瞑った。
昼休みになり、桜木軍団は学生食堂に集まった。受け取り口からほど近いテーブルを陣取り、その上に注文した料理を広げる。
花道から見て時計回りに、洋平、大楠、野間、高宮と並ぶ。花道と高宮が注文した料理の数々によって、テーブルの面積の三分の二が占領されていた。
大楠が焼き魚定食を食べた口でいちごオレを飲む。
「見ているだけで気持ち悪くなるぜ」野間は大楠の食い合わせに顔を顰め、コロッケパンにかぶりついた。
「よくそのメシでいちごオレなんか飲めるな」炒飯を食べながら、洋平がくぐもった声を出す。
「なんだよ。いちごオレはウマいだろ。なぁ高宮?」
大楠に話を振られた高宮は、口いっぱいにカレーライスを頬張って強く頷いた。
会話に交わることなく、洋平と同じく炒飯を食べていた花道が、出し抜けに顔を上げて口を開いた。
「あっ、そうだ」
それはまるで、昨日放映されていたドラマについての話題を出すような、道端で見つけた変な物の話をするような、そんな軽い口振りだった。
「オレ、ハルコさんに告白してフラれた」