第一章
2
食堂内は阿鼻叫喚の地獄と化した。
まず大楠が口に含んでいたいちごオレを盛大に噴き出し、偶然に噴射方向にいた野間がそれを顔に浴びて絶叫。 反動で振り上げた腕が高宮の持っていた皿を叩き落とした。幸いにも花道を凌ぐほどの反射神経を見せた高宮が器を掴み、 中身が床にまき散らされるのを間一髪で防いだが、しかしその時に高宮が上げた悲鳴はおぞましく、食堂内のそこかしこからも小さな悲鳴と食器同士のぶつかる音が聞こえた。
食堂前を通りかかる生徒たちは、誰かが刺されたのかと野次馬となって入り口前に集まり、辺りは混乱の様相を呈していた。
騒ぎの原因となった花道も驚きで肩を痙攣させたが、すぐに「うるせぇな」と他人事のように文句を吐いた。
泣きわめく野間を無視して、大楠が噎せながら花道に掴みかかった。
「なっ──花道お前今──今なんて言った⁉」
「だから、ハルコさんにフラれたんだよ。何度も言わせるんじゃねー」
「なんで、いつ……だってお前、この前の選抜は──」
瞬間、花道に顔の横を両手で挟まれたかと思うと、大楠の目の前は激しく点滅した。 そして天井が遠のいていくのを、徐々に感じる額の強烈な痛みとともに彼はスローモーションで見ていた。
「テメェ、それ以上言ったらぶん殴るぞ!」床に大きく倒れる大楠に向かって、花道は怒鳴った。
花道は壁に掛かった時計をちらと見た。昼休みの時間が残り半分になっている。
「もうこんな時間かよ」花道はそう呟くと、慌ててコップに入った水を呷った。大きく息を吐いてコップを強くトレーに置き、 立ち上がって四人を見下ろしながら濡れた口を拭った。
「天才は練習しに行くから、お前ら後片付けしとけよ」
人差し指を自分のトレーに向かって突き立てる。そして今度はその指を友人らのほうに向けた。「あと今の話、誰にも言うんじゃねーぞ!」
そう言い捨て、人混みをかき分けてざわめく食堂から出て行こうとする。野間が咄嗟に、花道を呼び止めようとした。 けれども周囲の騒音にかき消され、彼の声は花道には届かなかった。
あっという間に花道は食堂を去り、あとに残された四人は呆然としていた。
「なぁ、洋平は知ってたのか?」
半身を起こし、涙目になって額を押さえた大楠が、先ほどまでのやり取りを傍観していた洋平に訊ねる。
洋平は聞き返した。「なにが」
「花道がハルコちゃんにフラれてたことだよ!」
洋平は大楠の喧しい声に、鬱陶しそうに顔を歪めた。「知らねーよ。なんでそんなことオレに訊くんだよ」
知らなかったことが意外だったらしい。一瞬、大楠は拍子抜けした顔をしたが、すぐに勢いを取り戻した。
「だって……だってお前、こういう時、オレたちに内緒にするじゃん!」
「なんだそれ、こっちだって初耳だっつーの……」
しかし大楠の言う通りだった。花道について、何もかもを彼らと共有しているわけではない。 時には、今は黙っていようと判断して誰にも話さないことがある。そのことを彼らも薄々と気付いていたようだ。
洋平の態度に、これ以上の追及は無駄だと悟った大楠が小首を傾げた。
「じゃあなんでこのタイミングで告白したんだ? だってアイツ……」
大楠はそこで口を噤み、振り向いて野間と高宮に視線を向けた。
洋平は黙して、目配せをされた二人が怪訝な顔のまま頷くのを見ていた。そこから先は、皆まで言わなくても分かっていた。
昨年末、湘北高校バスケットボール部はウインターカップ予選の二回戦目で翔陽に敗れ、冬の選抜を勝ち抜けることができなかった。
湘北にとって赤木、木暮の抜けた穴は大きかった。復帰したばかりの花道も自身の能力を最大限に引き出して奮闘したが、 しかし後半残り三分で二十点もの差をつけられて湘北は敗退した。
試合終了のブザーが鳴った時の、花道のあの顔を洋平はまだ鮮明に思い出してしまう。 「この天才が全国制覇する姿をゴリとメガネくんに見せてやる」、そうふてぶてしく笑って話す顔と重なって。
先ほどの騒動の余韻を引きずり、妙な空気感のまま四人は食事を終え、三々五々に歩く生徒に紛れて廊下を歩いた。
チャイムが鳴り、生徒たちが教室へ戻ろうと足早に洋平の横を通り過ぎていく。洋平は三人と別れ、 緩慢な足取りで教室に入ったが、そこに花道はいない。いつものようにチャイムが鳴ってから練習を終えて、これから教室に向かってくることだろう。
洋平は自分の席に深く腰を下ろすと、頬杖をついて斜め後ろを向き、窓際の端の、主のいない机を見つめていた。
花道の言葉を反芻する。洋平の脳内に、口元に米粒をつけた花道が口を開く様子が浮かぶ。満腹になって落ち着くはずの脳が考えるのをやめてくれない。
『花道はいつハルコちゃんに告白をした?』
洋平は掌底に顎を載せた。昨日、一昨日の出来事ではないだろうと彼は思った。なぜなら彼女が帰る時も、 花道は練習をしていたからだ。放課後以外のタイミングで花道が告白をすることは絶対にない、洋平はそう心の中で断言した。
ロマンチストで形式にこだわる花道は必ず、放課後の誰もいない校舎裏に呼び出して告白をする。 その直前には、相手の下駄箱に果たし状のような威圧感の放つ文体でラブレターを入れて呼び出す。過去五十回にも及ぶ失恋記録から分かる流れだ。 それは儀式のようなもので、花道にはどれ一つとして絶対に外せないのだ。
そんな花道だから、予選敗退が記憶に新しいままでの告白も、洋平には考えられなかった。
『だとしたら、それよりも前に告白をしていたのか? そしてフラれていたのか? それをアイツ自身が、今の今まで忘れていたくらい、どうでもいい出来事だと思っていたのか? そんなアイツと、オレは会って会話をしていたのか? それなら、本当にそうだったら……』
洋平の胸が、不意にざわめく。顎を載せた手が、頬に爪を立てた。
窓の外で、ちらちらと白い花びらのように雪が降り落ちた。寒花に気づいた女生徒の弾んだ話し声が聞こえる。
無人の席に、唐紅の色をした幻影が現れては消える。洋平は無意識に顔を歪めた。
『……このオレが、何も気付かなかっただと?』