第一章
3
「時間だぜ花道」
終礼のチャイムが鳴っても未だ眠り続ける花道の肩を、洋平は揺すり起こす。
寝ぼけてくぐもった、獣の唸りにも近い声を上げて、花道は腕の隙間から顔を少し出した。
「花道」
隙間に覗く花道の顔を見つめ、洋平はもう一度名前を呼ぶ。その声は人を起こすのには相応しくない、囁きのように静かなものだった。
起きていることを表明するように、花道は間延びした声を出して、重たい瞼を開けた。
「今日はバイトか」花道が訊いた。だが、訊くと表現するよりも、自分に言って確認したと表現するほうが近かった。
「そうだよ」それは我ながらに驚くほど、優しい言い方だった。誤魔化すように朗らかに加える。 「まあ、時間ギリギリまで見るつもりだけどな」
するとやにわに花道は顔を上げた。口の端にはよだれの痕、額と右頬が机と腕に押し当てられて赤く、 老人の皺のように一本の線が鼻翼のすぐ横から顎に向かって斜め下にくっきりと大きくついていた。 寝起きの締まりのない表情に、どこか満足げな色が織り交ぜられている。
「そうしたまえ。天才は日々成長しているのだからな」
花道は唇の端を袖で乱雑に拭った。そして腑抜けた声を上げながら、背中を反らして大きく伸びをすると、机の横の荷物掛けから鞄を持って立ち上がった。
「行くぞ」
待たせていたのは自分でありながら、花道は堂々と洋平に声をかけた。洋平は返事をして花道の後を着いていった。
秋の半ばを過ぎてから、洋平を含んだ見物人の定位置が変わった。風で舞い上がった枯葉が体育館に入っては邪魔なので、 外に繋がるシャトルドアを全て閉めきって部活動は行われていた。今の彼らの定位置は、いつも立っていたシャトルドアの真向かいにある二階のギャラリーだ。
洋平は、花道含めた一年生が体育館の床掃除をしている様子を見下ろした。
さっさと練習をしたいからとモップの柄を強く握って走る花道。花道と同じ気持ちなのか、 同様に素早く掃き掃除を行っている流川。彼らが一直線に自分のほうへ向かってくるので、慌てて横に避けるほかの一年生。
初めは東西の両端から掃除を開始していた花道と流川だったが、同じスピードで走るので横並びになる時が来る。 俯き、モップと床だけを見つめ、お互いが無意識のうちに相手よりも速く、より速くと駆け足になる。 最終コーナーを曲がると、ついに二つのモップが対峙した。
二人が顔を上げて目を合わせた刹那、彼らは一目散にゴールとなる扉、普段生徒が使う出入り口に向かって駆け出した。 脚色よく全速力で走り、二頭の駿馬は眼光鋭く睨みを利かせてゴールラインの上に踏み入らんとする。 体長、体躯ともにほぼ互角。勝敗の分からぬ展開に数少ない観客は固唾を飲んで行く末を見つめた。
最終コースも半ばを過ぎた時、世にも珍しい緋色の毛並みの花道が腕を限界まで伸ばしてリーチを広げ、 モップが白線の上を越えるようにと小狡い手を使った。流川はそれを一瞥して軽蔑の色を瞳に映した。
ゴールまであと七尺。花道は邪悪な笑みを貼りつけて勝利を確信した。
しかし、床の状態が悪かったのか、はたまたモップの接触面の角度が悪かったのか、突如としてモップの滑りがなくなった。 危機を察知する間もなく花道はつんのめり、モップの柄の先端が深く鳩尾に押し込まれた。 勢い余って盛大に前へと投げ出された体は踏み外した右足によって向かう先が変わって横へと転がる。 体の側面を床に打ちつけ、彼は痛ましい掠れ声を上げて転倒した。
その横を涼しい顔をした流川が通り過ぎ白線を強く踏む。歓声はない。聞こえるのは花道の痛みに呻く声だけだった。
振り返り、横たわる花道を見下ろしながら、艶やかな青鹿毛色の髪を二度左右に揺らし、勝ち馬は満足げに「どあほう」と鼻を鳴らした。
「クソギツネが……っ!」花道が噎せながら痛罵を浴びせた。
観客として傍観していた洋平は、花道のその滑稽な姿に失笑した。
花道と流川の仲の悪さは相変わらずだ。試合では息の合ったコンビネーションプレーを見せてくれることが、 あの夏の試合を皮切りにままあるが、そのプレーも決まればすぐにこれだ。何も変わっていない。
飽きもせず行われる不毛な争いに安心感すら湧いていたところに、小さく甲高い悲鳴が聞こえ、洋平は声のした更衣室側のシャトルドアのほうに視線を向けた。
「桜木君、大丈夫⁉」
ドアから晴子が飛び出し、花道のもとに駆け寄った。
それまで蹲り床を転げ回っていた花道だったが、晴子の声が耳に入った瞬間、勢いよく立ち上がった。額に脂汗を滲ませながら笑顔で気丈に振舞った。
洋平が二人の様子を凝視していたところに、三つの聞き馴染んだ大笑いが通路から聞こえた。横を見ると、お決まりの三人がぞろぞろと歩いてきていた。
「なーにやってんだ花道は」
野間が笑いながら呆れて言った傍らで、大楠が腹を抱えて引き笑いをしており、真っ赤になった顔は泣いているのかと見紛うほどに歪んでいた。
柵に手を置いて、洋平の横に並んだ高宮がニヤけた口を開く。
「なー本当にお前ってさぁ……」
「しつけぇんだよ」言い終わらないうちに洋平は重ねた。牽制も兼ねて声に苛立ちを含ませる。
すると効果は覿面で、高宮は諦めて大人しく口を噤んだ。
演技としてあえて眉を顰めたつもりだったが、洋平は顔を向き直しても未だ刻まれる己の眉間の皺に気付いていなかった。
花道の愚行を優しく窘めつつ、転んだことに過剰に心配する晴子と、彼女に醜態を晒してしまったことを恥じらい、 ばつの悪そうな顔で無事だと主張する花道の様子を見て、洋平は再び、一点の疑問に頭を支配された。
花道は本当に晴子に告白をしたのか。あの昼休みからここに来るまでの間、 呑気に眠る花道の顔を眺めるだけで他のことは何も手につかず、洋平は心ここにあらずのまま徒に過ごしていた。
失恋してからまだ日は浅いはずだというのに、まるで何事もなかったかのように接することができるのか。 今までの花道から考えるに、洋平の答えは否だ。晴子に至っては、おそらく告白されて初めて花道から好意を寄せられていたと知ったはずなのだ。 いくら彼女が優しいとしても、普通、告白してきた相手と以前のように話すことは気まずくてできないものだ、そう洋平は考えていた。 それなのに以前と様子に変わりはない。洋平がこうして会話している二人を観察しても、一切気になる点が見当たらない。 もともと、花道が言うまで気がつかなかったくらいだ。あれこれと頭を巡らせても納得のいく結論は出ない。 いっそ思い切って訊くべきかもしれない。果たしてまともな回答は返ってくるのか。ヘルメットを被ってからにしようか。
ふと腕時計を見ると、もう帰るべき時間になっていた。隣に立つ友人らに別れを告げ、洋平は階段を下りて体育館から廊下へ通り抜けようとした。
「なんだよ洋平。もう帰んのか?」
立ち去ろうとする洋平に、バスケットボールを持った花道が声をかけた。
洋平は振り返った。
「おう。前も言ったろ? 原チャリが壊れたんだって」
一週間前、兄のお下がりである原動機付自転車がとうとう故障した。自転車でアルバイト先に向かうなら、いつもより一本早い電車に乗らないと間に合わない。
「べつに知ってるけどよ……これじゃあわざわざ見に来た意味ねーだろ」
不満を隠しもしない花道に、洋平はなだめるように微笑んだ。
「まあそう言うなって。それじゃあ宮城サンたちに部活休むって連絡するの忘れんなよ」軽く手を上げて別れの挨拶をする。
花道は低く短く返事をした。背を向けて、ドリブルをしながらゆっくりと洋平から離れていく。
「じゃあね、洋平君。バイト頑張って」傍らに立っていた晴子がにこやかに手を振った。
洋平は爽やかに笑い返した。花道の少し丸めた背中を見つめ、立ち去ろうと振り向きざまに一歩足を踏み出した。しかし眼前に男が立っており、咄嗟に身を横に躱す。
「おっと」
男が小さく声を上げた。宮城だった。洋平の横を通り過ぎようとした時にちょうど洋平が動いたので、彼もまたゆらりと避けた。
「ああ、スンマセン」洋平は軽く会釈をした。
宮城の姿を認めた花道が、ボールを脇に挟んで再び洋平らのほうへバタバタと駆け寄ってきた。
「おーリョーちんナイスタイミング!」笑顔で三人の前に立ち、矢継ぎ早に宮城に言った。「オレ今度の三連休、洋平と北海道に行くから金曜と土曜は休みてぇ」
「北海道? 二人だけでか?」宮城は器用に片眉を吊り上げた。
「おう、洋平のアニキに会いに行くんだ」
アニキ。宮城はぽつりと呟くと、意外そうな顔で洋平のほうに向いた。
「お前、兄貴いたんだな……いくつ歳離れてんだ?」
話を振られた洋平は、兄の誕生日を思い出しながら答えた。「えーと、去年で二十二歳なんで、六歳差っスね」
「あら洋平君、お兄さんがいたのね! 知らなかったわ!」晴子が会話に加わる。
「そうなんですよハルコさん! 洋平のアニキ、顔はスゲー洋平に似てるんです。性格はそーでもないですけどね! アニキのほうが良い奴」
花道は嬉々として言うと、洋平に伸しかかる勢いで肩を組んで、楽しそうに笑った。
「あっ、なんだよ心外だな」重みで背を丸めた洋平が文句を言う。
宮城はさらに訊ねた。「どういう人なんだ?」
洋平は一瞬だけ壁時計を見やり、電車の発車時間に間に合うかについて意識を取られたまま答えた。 「どういう人ねぇ……。まぁ、良く言えばおおらか、悪く言えば能天気、かな……」
花道が洋平の言葉に重ねるように続ける。「お菓子めちゃくちゃくれるし、持ってるマンガとかゲームとか好きにやらせてくれるし、 スゲー優しいんだよリョーちん! スゲー良い奴なの!」
尻尾が生えていたら今頃ちぎれんばかりに振られているだろう。花道はさもその男が自分の兄であるかのように話した。晴子が楽しそうにクスクスと笑う。
「もーマジでお前は黙ってろって」込み上げる照れ臭さに、堪らず洋平はうんざりとした言い様で口を挟んだ。
洋平は肩に置かれた花道の腕を外して脱出し、自分の腕で擦れて乱れた髪型を直した。
その間、洋平の様子を見ていた宮城が口を開いた。
「そうか、そうか……まぁ北海道、楽しんでこいよ」笑みを浮かべて腰に手を当てる。そしてくるりと花道のほうに向き直ると、 「オメーはお土産大量に買ってこい」と言い放った。
洋平は今しがた自分に向けられた、宮城の細めた瞼の奥にある、どこか遠くを見つめているような、 形容するなら懐かしさを感じているような瞳に何か思わないでもなかった。その顔は自分が持つ、 大胆不敵で挑発的な彼のイメージとはずいぶんと違っていた。しかしそれについて考えるよりも、アルバイトに遅刻する恐れのほうが重要だった。
「二人とも、北海道、楽しんできてね」晴子が言った。
花道は大きく頷き、お土産に期待してくださいと胸を張って言った。そして偶然、晴子の後ろを通りがかった流川と玉響に目が合い、 無言で通り過ぎていく彼に「テメーには何もやらねー!」と怒鳴った。しかし流川がまるで聞こえていないかのように無視をしたので、花道はさらに激昂した。
目の前で繰り広げられるいつもの光景を前に、洋平は胸中を占めていく妙な居たたまれなさから手短に別れの挨拶をして、やや急ぎ足で生徒用玄関へと向かった。
生徒用玄関に着くと、靴を履き替え、午後からの降雪を予報していた気象予報士の指示通りに、持参した傘を開いて外に出る。
ビニール傘越しに空を見上げれば、凍曇から綿埃のような雪が風に煽られゆっくりと降り落ちている。傘の上に柔らかな雪が載っては、さらさらと滑り落ちた。
家路に向かう生徒たちの疎らな流れに加わって、洋平は一つ決心をして校門を抜けた。
最寄り駅まで彼は止まることなく歩いた。ときどき、ポケットに突っ込んだ手を出して傘を持つ悴んだ手と入れ替えた。
二日前、例年よりも比較的大きな寒波に見舞われた神奈川県では積もるほどの雪が降り、 未だに道路脇のそこかしこでは溶けきらなかった雪塊が、至る所を黒や茶色に薄汚く変色させて残っていた。
窓のサッシを拭いたあとの雑巾を連想させるそれをあまり見ないように、洋平は前方やや上の位置に目線を定めた。
沿岸部である湘南の冬しか体験したことのない洋平は、珍しく雪が降っても喜んだことがなかった。 幼少の頃から雪ではしゃいだ記憶がなく、無免許運転をするようになった今でも、ただでさえ凍結して危険な道路に横たわられて、 運転の邪魔だとしか思わなくなった。生来、人よりも情緒的な感受性に乏しい洋平から見た雪はその程度のものだった。
雪が降れば騒ぎ、塀の上などに積もった雪で意味もなく雪玉を作っては地面に叩きつける花道とは全く違うと、洋平は思った。
『……またオレは花道のことを考えている』
洋平は顔を顰めた。校門を出る前はなるべく考えないようにしようと決めていたのに、気がつくとすぐにこれだ。 何を見ても、それに関連する花道の姿を思い浮かべてしまう。そして花道のことを考えている自分に気付き、呆れてしまう。最近はこの繰り返しだった。
ため息を吐くと、口から薄白い靄が出て洋平の視界をよぎった。水を含んでぐずぐずとした踏み心地の雪道には茶色い足跡がおびただしく残っている。 一歩進むたびに、ずじゅっ、と音を立てて足が沈んだ。洋平は傘を持つ手を替えると、ポケットには突っ込まずに首の後ろに当てた。 靴の隙間に水が入り込んでいるのか、なんとなく靴下が湿っている気がする。
いつからだろう、花道のことばかり考えていると自覚するようになったのは。洋平は残された足跡の上を歩きながら物思いに耽った。
去年の夏、偶然を装って花道と砂浜で会ってからかもしれない。ひとりで砂浜にいたと聞いた時、洋平は姿を見ずにはいられなかった。 大好きなバスケットからも、頼れる仲間たちからも離され、ひとりぼっちで海を眺めている花道の丸まった背中が彼の脳裏にありありと浮かんだ。 ただ遠くからこの目で様子を確認するだけのつもりだったのに、気がつけば足は砂浜に踏み出し、隣に座っていた。
『思えば全部オレの自己満足だったな』
洋平は過去を振り返って思った。ただ放っておけず、ひとりにできず、いつかに見た姿と重なって、近寄ってしまった。 こちらに気付いて顔を向けた彼の瞳は、あの頃とは違っていたけれど。そしてこっそりと会うのをやめたのは、心配することはないと判断したから。 今の彼は全てを乗り越え、またここに戻ってきた。だから彼のことで洋平はもう、何も心配することは無いはずだった。
『それなのにどうして……』
横断歩道の白線が目に入り、洋平の顔が上がる。道はそろそろ大通りに差しかかる。大通りを跨る歩道橋を渡れば駅がある。 江ノ島電鉄線の真上に広がる空は、微かに紅がかった薄暗く淡い色をしていた。
洋平は考えを振り払い、横断歩道を渡った。