第二章

1

洋平の兄は二人が来るのを笑顔で待っていた。

洋平よりは数センチほど背丈があり、彼に似て飄々として大人びているが、ゆったりとした穏やかさが含まれた雰囲気をしている。

「久しぶりだな」

彼は目の前に立つ二人に言い、そしてはちきれんばかりの笑みを向けた。

「髪切ったな~花道! スポーツマンって感じで似合ってるぞ!」

「ハッハッハ、そうかねそうかね」

そのままお互いの近況を話そうとする二人に、洋平は咳払いをして止めた。

「お喋りはいいから、挨拶させてくれよ。隣の人、兄貴の奥さんだろ」

「おっとそうだ。ごめんごめん」

言われて洋平の兄は、隣でニコニコとしながらもどこか所在なさげに立っている女性を手で示した。

「この人が俺の奥さんです」

「初めまして」

彼女は待っていましたと言わんばかりに会釈をして名を名乗った。洋平の目線の位置に頭があり、焦げ茶色の髪は緩やかに曲線を描いて肩に降りている。 微笑みをたたえて細めた目の見つめる先は花道の頭に固定されていた。

「二人とも、これからよろしくね」

「よろしくお願いします」洋平は軽く頭を下げて丁寧に返した。

「色違いのジャンパー着て、二人とも仲が良いのねぇ。……あ、洋平くん、私のことは姉貴って呼んでいいからね」義姉は洋平に目を合わせて悪戯っぽく笑った。

「ハハ、いやぁそれは……」義弟は口ごもり、微苦笑を浮かべた。

彼女はまた花道を見上げ、驚嘆した。

「花道くん、本当に大きいねぇ! 遠くからでも──」

彼女の声が周囲の騒音にかき消される。花道が聞き返すがそれでも上手く聞き取れず、眉を寄せて耳元に手を当てた。

洋平が小さくため息を吐いて口を挟む。

「ここで話すのもなんだし、とりあえず駐車場に行きましょうよ」

洋平の提案に全員が同意した。


空港を出ると遠くに見える駐車場に自動車が所狭しと並んでいる。洋平たち一行は駐車場内を歩き回ってなんとか自分たちが乗る車を見つけだし、 トランクルームに荷物を詰めた。

「三連休はずっと晴れだってさ。運が良いなぁ」洋平の兄が言ってバックドアを力強く閉めた。

車に乗りこみ、エンジンを掛けてヒーターをつける。運転席には洋平の兄が、助手席に彼の妻が乗り、洋平と花道はバックシートに座った。 夫婦が空港に向かう時に掛けていたラジオが再び車内に流れる。

発車前に洋平の兄が訊いた。「昼飯、どうする? どこかファミレスにでも入るか?」

間髪入れずに彼の妻が異を唱えた。「えー? せっかく札幌に来たんだから、ちゃんとしたお店が良いわよねぇ?」洋平たちのほうを見る。

義姉に同意を促されたが、洋平はかぶりを振った。

「オレはどっちでも大丈夫ですよ」

「花道くんは?」

花道はしばらく黙った後、閃いた顔で言った。

「札幌ラーメン食べたいっス」

洋平の兄が頷いた。「おー良いな。じゃあ札幌ラーメン食いに行こうか。やっぱりそういうのは本場で食うのが一番だよな。あの横丁に行くか」

「ここから一時間くらいかかるけど、大丈夫?」

彼女の問いに、洋平と花道は大きく頷いた。ルームミラーでそれを認めた洋平の兄は、車のサイドブレーキを下げてギアをドライブに変えた。


「二人とも、本当に他にどこにも行かなくてもいいの? うちにずっと居てもつまらないんじゃない?」

移動中に助手席の洋平の義姉が再び振り返って訊いた。前日、二人の行きたい観光スポットはないらしいと、夫から言伝で聞いたことを踏まえての発言だった。

洋平が答えた。「大丈夫ですよ。オレたちのんびりしに来たんで。それに、二年生になったら修学旅行で北海道に行くし」

「えっ、そうなの? 沖縄じゃなくて?」兄が食いつく。彼は洋平と同じく湘北高校の生徒だった。

「あーなんか去年から沖縄じゃなくて北海道になった。スキーとかするらしい」

義姉が笑顔で言う。「あらそうなの、こっちに来てくれるのね。嬉しいわぁ」

正直に話せば、洋平には行きたい所があった。さっぽろ雪まつりである。人生で一度は目にしておこうと思っていたが、 旅行に行く直前になってその祭りは毎年二月に開催されると知った。他に行きたい所はどこも移動するには遠すぎるか、 行くとしたら夏のほうが見頃などの理由で結局、大丈夫と答えるしかなかった。

花道はというと、そもそも彼は北海道のことを何も知らなかった。洋平の義姉が札幌と言ったことで初めて北海道と札幌、 そしてラーメンが結びついたのだ。他に彼が知っているのは、幼い頃にテレビで見たエゾオオカミくらいだった。

修学旅行先が変わったことにショックを受けている兄を余所に、洋平は花道に話しかけた。

「知ってるか? 陵南はハワイに行くらしいぞ」

「ハァなんだそれズルっ!」花道は腹を立て文句を飛ばした。

助手席に座る彼女はパンと手を合わせ、優しい微笑みを浮かべた。

「それじゃあこの二日間は北海道の美味しいものいっぱい食べましょうね」

花道が大はしゃぎで賛同の声を上げた。

こうして四人は、近況や他愛のない世間話などをして移動時間を楽しく過ごした。


洋平の兄が話していたあの横丁とは、札幌市のすすきの駅の近くにあった。ラーメン店に特化した横丁で、 人が三人横並びになれば塞がるほどの道幅で、天井に規則的に並ぶ三列の提灯が通りを煌々と照らしている。

まだシャッターの閉まっている店も何軒かあるが横丁内は賑やかで、そこかしこから調理音や人の声がする。 通りを一回往復するだけで服に染みつきそうなほど、ラーメンの濃厚な匂いが充満していた。

花道はその匂いに胃を刺激され、腹の音を大きく鳴らした。辛抱堪らないといった顔で洋平たちを見る。

「ヤベェ、ここヤベェよ! どこでもいいから早く入ろうぜ!」

急かす花道をなだめて洋平の兄が選んだ店は、真っ赤な暖簾が特徴的な店だった。店の前にはすでに数人の列ができていた。

ラーメンのために行列に並ぶのは洋平にとって生まれて初めてで、そのことを兄夫婦に話して暇を潰していた。 だが花道は会話に参加しなかった。彼は空腹感を抱えたまま待たされていることが我慢ならず、腕を組んではときどき他の客に対して文句を漏らしていた。

ようやく案内されて店の奥にあるテーブル席に着いた時には、時刻は正午を回っていた。

注文を決めてしばらくすると、お待ちかねの料理が運ばれてきた。長方形のテーブルにラーメン丼が四つと餃子の皿が二つ置かれ、肘を立てる隙間もない。

待ちに待ったラーメンに花道は喜びの声を上げて目を輝かせた。花道が頼んだ味噌ラーメンには、 メンマ、ネギ、モヤシと拳ほどの大きさのチャーシューが二枚、麺の上に載っている。湯気とともに芳烈なスープの匂いを立てて、 花道を誘惑する。花道は堪らず唾を飲み込んだ。

「いただきます!」勢い強く合掌して、熱々の麵を啜る。

瞬間、今まで味わったことのない衝撃に目を見開く。豚骨と鶏ガラの出汁が甘味噌のタレと合わさって絶妙な調和を保っている。 中太のちぢれ麺はコシのあるもっちりとした食感でスープによく絡まり、スルスルと喉を通る。 こってりとしているのに後味は強く残らない。花道は夢中になってもう一度麵を啜った。

「う、ウメェ……っ!」麵でいっぱいの口から噛み締めるように感嘆の声を漏らす。

あっという間に平らげると、ラーメン丼を持ち上げて店主にお代わりを要求した 。花道が三杯目のお代わりをした時、忙しく厨房を動き回っていた店主も思わず手を止め、カウンターを隔てて声をかけた。

「兄ちゃん良い食べっぷりだねぇ! 嬉しいからオマケしとくよ!」

運ばれてきた味噌ラーメンを見ると、チャーシューが三枚と味玉が一つ載っていた。

「おー大将ありがとな!」花道が溌溂した笑顔で丼を受け取った。

その様子に洋平の兄夫婦は圧倒され、一部始終を口を開けて見ていた。

洋平は辛味噌ラーメンを食べていた。彼もまた辛味噌ラーメンのその癖になる辛さに魅了されて喋る余裕をなくし、 鼻を啜って、ヒリヒリと痛む口内を癒そうとコップの水を呷った。

結局、花道は味噌ラーメンを四杯、餃子を十五個食べて店を出た。

花道が膨らんだ腹を擦り、洋平に笑いかける。

「あー食った食った。ウマかったなぁ洋平!」

「あんなウマいラーメン食ったことねぇや」


朝早くに空港を出るなら、今のうちにお土産を買っといたほうがいいよな、と洋平が勧めたことで、一行は札幌駅構内の土産屋へと足を運んだ。

土産屋は客足が絶えず、有名な製菓メーカーの棚の前には常に誰かがいた。

洋平は店内を渡り歩いた。行きつ戻りつして、数多あるお菓子コーナーの一つに立ち止まる。

陳列された多種類のお菓子を前に洋平が吟味していると、花道がピッタリと寄り添うように隣に立った。

買い物かごを携えた花道は、少し恥じらいながら洋平に訊ねた。

「なぁ洋平、これって女の子が貰っても嬉しいかな」

そう言って洋平に手を差し出す。クッキー缶を持つ洋平は首だけを曲げて花道の手を見た。

白い兎のキーホルダーが一つ、ちょこなんと座っている。木彫りで、いかにも民芸品らしい微妙にリアリティのある見てくれをしている。 真っ赤な目をした兎は花道の大きな手の上に置かれてより小さく見えた。

「……知らねぇよ」洋平は首を戻し、缶の裏面を見て個数を確認した。

「知らんじゃない! もっとちゃんと見ろ!」買い物かごを軽く洋平にぶつけた。

洋平は缶を戻すと、花道のほうに向き直った。側頭部を撫でつける。

「ハルコちゃんに渡すヤツだろ? あの子なら何あげても喜んでくれるって。優しいから」

「だからそんな適当じゃダメだろーが!」

洋平は煩わしそうに眉を寄せて返した。

「ていうかお前、マジでハルコちゃんにそれプレゼントするつもりなのか? なんで?」

フラれたのに。

洋平は心の内でそう続け、花道を見た。

花道は一瞬口ごもったが、俯きがちに訥々と話した。

「日頃の感謝を込めて渡そうと思ってよ……。この前、ハルコさんに好きな動物は何か訊いたら、 兎と狐が好きだって言ってたから……。狐のほうがいっぱいあったんだけど、狐は、キツネだけはイヤだ……!」

歯を食いしばって絞り出すように言う花道に、『ハルコちゃんが狐を好きな理由も同じだろうさ』と洋平は思った。

花道は視線を上げると洋平をきっと睨んだ。

「オレだってこんなの初めてだから迷ってんだよ! さっきからなんだその態度は! ダチなら少しは協力したらどうだ!」

洋平はちょっと顔を歪めたあと、また陳列棚に向いて視線を泳がせて探しているふうを装った。 そして目の前にある、小さな包みに入ったチョコレート菓子を手に取った。

「それ、あんまり可愛くないからやめとけよ。ハルコちゃんもダサいキーホルダーよりウマい食い物のほうが貰って嬉しいと思うぜ。 これとか、イチゴ味だしピンク色だし、気に入ってくれるだろ」

投げるように花道に渡す。花道はパッケージを眺めながら独り言ちるように言った。

「そうか、やっぱりハルコさんも食い物のほうが喜ぶよな……。……良いなこれ! なんだよ、やればできるじゃないか洋平クン」

花道は満足そうに頷くと、買い物かごにそれを入れた。洋平は花道を見ずに言った。

「そりゃどうも」


会計を済ませて駅を出る。外は日が傾いて薄暗く青白んでいた。

定番のお菓子から、おふざけで買ったゲテモノな味のものまで詰め込んだ紙袋が二人の両手に引っ提げられている。 トランクルームに入りきらない量に、洋平の兄夫婦は笑った。