第二章
2
道路が混雑していたので、洋平たちの乗る車はたびたび渋滞に巻き込まれた。 洋平はときどき夫婦の会話に交ざったりぼんやりと窓の外を見たりして過ごしていたが、満腹の花道はすぐに眠りに落ちた。
花道が洋平たちに起こされ目を開けると、窓の外が真っ暗だった。驚いて飛び上がった弾みでルーフライニングに頭を打ちつけ、呻き声を上げる。
「い、今何時だ⁉」
「まだ四時半だよ」洋平の兄が言う。出発から二時間近く経過していた。
「デカい口開けて寝てたなぁお前」洋平がニヤニヤと笑みを浮かべてからかう。
「移動ばっかりで疲れたわよね。部屋でゆっくり休んでね」
洋平の義姉は優しく話しかけると、花道たちを玄関前に案内した。
洋平の兄夫婦が住む家は、五十坪はありそうなほどの大きさで重厚感のある佇まいをしていた。 二階建てで、平らな屋根に分厚い二重窓、そして風除室と、雪の多い北海道特有の家の造りだ。
「アニキの家デケー!」花道は家を見上げ、驚愕した。
「俺が建てたんじゃないけどね」洋平の兄は眉を下げて笑った。
風除室で足裏の雪を落とし、頑丈な玄関扉を開けて四人は中に入った。
広い玄関から真っ直ぐに廊下が続き、玄関を上がってすぐ左側に茶の間がある。 中ほどの右側には洗面所、トイレと横に並び、二階へと続く階段が向かい合っていた。
夫婦は廊下の突き当たりにある一つの部屋に、二人を案内した。
洋平の義姉が開き戸を手前に引くと、そこには六畳間の和室があった。親戚などが泊まりに来た際の客間として使われている室だ。 すでに畳まれた布団が二枚、部屋の中央の隅に置かれ、左の壁際には横長で幅の狭い座卓と二枚の座布団があった。 右の壁には物置に繋がる襖、奥には大きな二重窓がついている。
「暖かくなるまで少し待ってて」洋平の義姉はそう言うと、扉のすぐ近くに置かれた灯油ストーブを点けた。
二人は荷物を窓際の隅に置いて上着をハンガーに掛ける。座布団に腰を下ろす洋平に、花道は膝立ちで擦り寄った。
「洋平洋平」
「どした」
「アニキの家スゲー! ゴリの家くらいデケーぞ」
「そーなの」座卓に肘を立て、洋平は微笑ましそうに返す。
「おう! ゴリの家もめちゃくちゃデカいんだよ。しかもトイレにウォシュレットついてた」
「あ、それは凄いな」
「だろ!」花道は目を細めた。
まぁあれくらい家がデカくねーとゴリは入んねーもんな、と子どものような口振りで愉快そうに続ける。
「ゴリの親もゴリラかと思ったけどよ、なんとお母さんはハルコさんみたいにキレイな人で、親父さんも普通の人間だったんだ」
真剣な表情で指を立てて話す花道に、「そりゃそーだろ」と洋平は笑った。
ペタペタとスリッパの音が聞こえ、扉が開く。洋平の兄が部屋に入ってきた。
「お前らに大事な話をするの忘れてた」
彼は後ろ手で扉を閉めると、扉に寄りかかって、この家での約束事を説明し始めた。 勝手に外に出ないこと。熊が出る恐れがあるので、山のほうには行かないこと。雪に飛び込まないこと。
一頻り喋ったあと、「分かったな?」と念を押す。洋平と花道は間延びした返事をした。
「晩飯にピザ頼んだから、また三十分くらいしたら呼びに来るよ」洋平の兄はそう言って部屋を出ていこうとした。 しかし寸前で振り返ると慌ててつけ加えた。
「あっ、もちろん夜は外出禁止な! 一人でなんてもっての外だぞ」二人に釘を刺し、彼はバタンと扉を閉めた。
「なぁ洋平、ここってどういう場所なんだ?」
花道は洋平に訊いた。移動中はずっと眠っていて周辺のことを何も知らなかったからだ。
「見た感じ家と畑と小さい店ばっかだったな。山の近くで、コンビニは全然なかった。けっこう田舎だぜ、ここ。 ……マジで熊出るかもよ」洋平は声を潜ませ、緊迫感のある言い方をした。
洋平の話した通り、彼の兄夫婦の家は中心街から外れた山沿いの小さな町にあった。札幌市から車で約一時間の、 かつては炭鉱都市として栄えていた市だ。その町では毎年、ヒグマの目撃情報が流れていた。
しかし、熊を見たことのない花道は一切の恐れを抱かず、つまらなさそうに返事をした。「コンビニねーのかよ」
三十分後、玄関チャイムが鳴り、洋平の兄よりも先に花道が配達員からピザを受け取った。 昼での花道の健啖振りを考慮したのだろう。Lサイズの平たい箱が三枚、積み重なって渡された。
弾んだ足取りでピザを連呼する花道は、洋平とともに茶の間に入った。
茶の間は、十畳ほどの居間と六畳ほどの台所が合体した、広々とした空間だった。 フローリングの上に肌触りの良い無地のカーペットが敷かれ、その真ん中に鎮座するように長方形の大きな炬燵が置かれていた。
四人は炬燵に入り、配達された商品を並べた。最初に食べたペパロニピザは、モッツァレラチーズ上に鮮やかな赤色のペパロニが食欲をそそった。 四人はピザと、一緒に注文したフライドポテトに舌鼓を打ち、塩辛さで乾いた喉をコーラで潤した。
談笑している合間にピザは次々と消えていく。三枚目はほとんど花道が食べた。
「そうだ、花道に見せたいものがあるんだった」
食事が終わり、テレビを見ていたところに洋平の兄は言った。
「オレに?」ミカンを口に含んで花道が聞き返す。
洋平の兄は頷くと茶の間を出た。階段を駆け上がる音がしてしばらくすると、また部屋に戻ってきた。 手には透明なクリアファイルを携え、その中に切り抜かれた新聞記事が一枚入っている。
「ほら、これ」洋平の兄は言ってファイルから記事を取り出す。
炬燵板の上に置かれた記事を花道は覗き見た。それは神奈川県が発行する地方新聞だった。 昨年の高校総体県予選にて翔陽が湘北に敗れたことを記したスポーツコーナーの一ページ。 記事を大きく占める写真には、花道がスラムダンクを入れた瞬間がダイナミックに切り取られている。
花道は身を乗り出した。
「おぉ! これは!」
「大事に取ってあるぞ~。洋平が送ってくれたんだ」
「バカ、言うなよ」洋平は兄を睨んだ。
「オレが初めて試合でスラムダンクしたヤツだ。うーん我ながら惚れ惚れしちまうぜ。 見ろ! このぶっ倒れているコイツの無様な姿を」花道はヒヒヒと笑って、写真の倒れこむ相手選手を指差した。
「ファウルだったけどな」洋平が口を挟む。
「うるせぇっ」花道は洋平を肘で小突いた。
花道は当時の試合を懐古した。しかしすぐに数週間前の地区予選の結果を思い出し、顔を歪めて歯嚙みした。
「翔陽の奴らめ……調子に乗りやがって……。次こそはこの天才バスケットマン桜木がけちょんけちょんにしてやる……湘北は同じ相手に二度も負けんぞ」
「試合には観に行けてないが、お前の活躍は欠かさずチェックしてるんだぜ」洋平の兄が言う。
「バスケのルールもよく分かってない癖にな」すかさず洋平が反撃として茶々を入れた。
図星を突かれた兄は、風呂の用意してくる、ともごもご言って部屋を出て行った。
「ハッハッハ、アニキはすっかり桜木選手のファンなようだね」花道が偉そうに腕を組む。
洋平は何も言わずに、ただ写真を見つめていた。
「お前ら、風呂の準備できたぞ。先入れよ」
二人がバラエティ番組を観ていたところに、茶の間の扉を開けて、洋平の兄がひょっこりと顔を出した。
花道が瞠目する。「一番風呂に入っていいのか⁉」
「いいよ。今日は疲れただろ? ゆっくり浸かれよ」言って洋平の兄は台所まで歩くと、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
花道は喜び、いそいそと部屋を出た。洋平も後ろを着いていく。廊下を歩く花道は、洋平の存在に気づくと、立ち止まって振り返った。
「なんだよ。一番風呂はオレが入るからな」
「好きにしろよ。オレは部屋で待ってるし」
洋平は平然として言うと、花道の横を通り抜けた。洋平の返答が癪に障った花道は、わざと彼にぶつかるように追い抜き、我先にと客間に入った。
「ガキかよ」
洋平が呆れたふうに後ろから言葉を投げた。
花道が風呂に入っている間、洋平は何をするでもなく、ときどき何事かを考えてはぼんやりとしていた。 花道が新聞に載ったと、嬉しさから兄に電話をしたことを洋平は少し後悔した。
兄は口が軽い。話の流れでつい内緒話を漏らしてしまう。他人のだけではなく自分のもだ。 それなのに大事な話は伝え忘れる。洋平は兄のそういうところは嫌いだった。 だが、兄の能天気で物事を深く考えすぎない性格は、腹が立つ時もあれば羨ましく思う時もあった。
切り抜かれた新聞記事。
洋平は、写真に写る花道の髪型を懐かしく思った。そして、試合の翌日に過ごした、体育館での静謐な時を眼の裏に浮かべた。 まだ彼には、静かな体育館に響くボールの音が今なお耳元で聞こえるように思い出された。話すほどのことでもない、取るに足らない出来事。 だが、洋平の心にはしっかりと刻まれていた。どんな技術をもってしても、あの青く、淡く澄んだ朝の空気までをも切り取ることはできないだろうと思った。
洋平が追想に耽っていると、勢いよく扉が開いて花道が入ってきた。
「あー良い湯だった」
白い長袖のTシャツにグレーのスウェットパンツを身に着けた花道は、脱いだ服をまとめて自分のバッグの近くに放り出し、どっかりと畳の上に腰を下ろした。
洋平は予め用意していた着替えなどを脇に挟んで立ち上がった。
花道の後ろを通る。
しかし、ふわりと鼻腔を抜けた香りに洋平は思わず歩みを止めた。ゆっくりと、花道のほうに体を向ける。
花道から、華やかで甘い香りが漂っている。風呂上がりの体から、熱気とともに立ち昇るのが見える気がした。 熱気は馥郁たる香りを纏って洋平の鼻腔から通り肺を満たす。嗅いだことのある香り、決して忘れることのできない花の香りに、洋平の腕が伸び──
寸前、花道は振り返った。
洋平の手が花道の頭を掴み、前方に雑に押す。湯上りの髪は湿り気を帯びて柔らかく手のひらに触れた。
花道は咄嗟に腕を振り上げ、洋平の手を退かした。
「なんだよ」
「風呂、どうだった?」
普段の冷やかしている時のような笑みを薄らと口元に浮かべて、洋平は訊いた。自由な手はまだ花道の頭を掴もうと縦横無尽に動いている。
「おー、スゲー良かった。あと風呂もデカかったぜ」
襲い来る手を叩き落としてじゃれ合いながら、花道は余裕そうに目を細めた。
洋平はスッと腕を引っ込めた。
「へぇ」
どこか空虚な返事をして、彼は部屋を出た。
洋平は脱衣かごの中に着替えを落とすと、しゃがんで洗面台のフロアキャビネットの扉を開けた。開けるとすぐに、浴槽洗剤に並んで角丸四角形の入浴剤が目に入った。
洋平はその入浴剤を手に取った。橙色の容器のラベルには深緑の葉に密集した雄黄色の小花と「はなやか金木犀の香り」という文字がプリントされてある。
「やっぱりな」洋平は独り言ちた。
入浴剤を戻し、扉を閉めて立ち上がり服を脱ぐ。冷気が剝き出しの体を撫でて鳥肌が立った。
浴室の扉を開ける。ついさっきまで使われていたのもあり、タイル張りの室内には湯気が充満して辺りが霞んで見える。 洋平は持参した整髪料専用のシャンプーをキャビネットの隅に置いた。
手を伸ばして、風呂蓋を、外す。
それまでも仄かに香っていた甘い花の香が噴き出すように立ち込める。湯船の中は一面に強い黄みがかった緑色をしていた。
洋平は顔を顰めて風呂蓋を閉めると、風呂椅子に腰を深く下ろした。蛇口のハンドルを捻り、水量を最大にしてシャワーを浴びる。 熱湯が粒となって弾丸のように洋平の肌を打ちつける。俯いた頭に水が伝って床に流れ落ちる。
このまま、あの日の記憶も流れ落ちてくれたらいいのに。
洋平は両手で顔を覆った。花の香りに包まれて、うまく呼吸ができない。
洋平は金木犀の花が嫌いだった。花そのものではなく、その香りを嫌っていた。
ただこの匂いを嗅ぐだけで、あの日のことを思い出してしまうほど、洋平のなかでそれは記憶と深く結びついていた。
思い出したくないと、触れるべきではないと分かっているはずなのに、裏腹な行動を取ってしまう自分がいる。 まるでかさぶたを剝がすみたいに。そこにあるのは、生々しい傷跡だけだ。
自責の念が洋平に襲いかかる。過ぎたことだとしても、彼はあの頃の自分を許せなかった。
降りしきるシャワーの雨粒が耳を劈く。それでも雑音は気を紛らわせられず、目を瞑った洋平の視界に夕焼けの眩しい通り道が見えた。 カーブミラーに中学二年生の自分が映る。秋風に乗って金木犀の花が甘く香り、すれ違う小学生の話し声が聞こえる。
感覚までもが甦っている、振り払うことができない。
これは忘れがたいあの秋の日。
父を亡くした花道に会いに行った、あの秋の日。