第二章

10

花道は床に就いた。月光も差し込まない部屋、ここは夜になるととても静かだ。静かすぎて、落ち着かない。 時計の秒針が動く規則的な音だけ響いて、言いようのない焦燥感がじわじわと花道に迫りくる。

花道はまだ、あの日のことを思い返していた。記憶を辿る。あの日の翌日、家まで着いて来ようとした洋平を、 まだ引っ越しの準備ができてないからと言って花道は帰した。

まさか本当に着いて来てくれるとは思わなかった、でも心のどこかでは彼なら絶対にすると分かっていて、花道はそれを期待していた。 彼は約束を破らない。自分の言ったことはよっぽどのことがないと曲げない頑固な男だ。

『洋平はきっと、オレが言えば本当にずっとそばにいるつもりだったんだろうな』

花道はそう思った。だから彼は洋平を帰した。

すると洋平は大人しく帰っていった。何も言わずに立ち去ろうとする洋平に花道は狼狽え、呼び止めたい気持ちでいっぱいになった。 そしてすぐに腹を立てた。本当に帰ろうとする洋平に腹を立てているのか、はっきりとしない感情を抱く己に腹を立てているのか分からないまま。 霰が降り、肌にぶつかって、とても痛かった。

回想は終わる。帰れと言われた時の洋平の顔は、いったい何が言いたかったのか、今も分からない。洋平に訊けば、答えてくれるだろうか。

花道は寝返りを打つと、薄目で洋平を見た。洋平は目を閉じていた。『でもまだ起きてるよな』、と花道は思った。 そう思うと強く洋平に話しかけたくなったが、彼は踏みとどまった。急にこんなことを訊かれたら、洋平は困惑するだろう。 そして心配もするだろう。せっかく家族と再会して楽しく過ごしているところを邪魔したくなかった。

家族の団欒を、邪魔したくない。

寝返りを打つ。脳裏を何度もよぎる考えは次第にその頻度を増やし、花道の頭を支配していく。バレたらただでは済まないと分かっていた。 しかし今すぐそうしないと、切り替えて朝を迎えなきゃいけないと体が浮き足立つ。

『バレなきゃいいんだ』

囁きが聞こえる。花道は目を開けた。ゆっくりと布団から這い出て、音を立てないようにそっと洋平の横を通る。

「どこ行くんだ花道」

花道は立ち止まった。予想通りのことに、彼は平然として言った。

「トイレ」

そして彼は部屋を出ていった。


……洋平は花道が戻ってくるのを待った。トイレと答えた声に苦しそうな様子は含まれていないように思えた。 だとしても腹を壊しているかもしれない。本当に海鮮丼が原因だったらどうしよう、そう洋平は思い当たる節を手当たり次第に探った。

しかし、どれだけ待っても花道は戻ってこない。洋平は半身を起こした。心配事が現実味を帯び始め、不安に駆り立てられて客間の扉まで歩いた。

扉を開けて廊下を覗く。廊下には明かり一つ灯っていない。洋平は慌てて部屋を出た。足早に茶の間へと向かう。 茶の間のドアノブを握ろうとした時、玄関扉が目に入った。その瞬間、恐ろしい予感が彼の脳内を走り、洋平は玄関を覗いた。 一番大きな靴を探すがしかしどこにもない。彼は裸足のまま玄関の上を走って扉に手を掛けた。力いっぱいに押された扉は軋む音を立てていとも簡単に開いた。

「あの馬鹿!」

洋平は急いで靴を履き外に飛び出した。


風除室を出ると強風に殴られ、洋平は息の根が止まりそうな寒さに身悶えた。歯を食いしばって堪え、花道の姿を探す。

左を見れば寝静まった住宅地の連なる道路が真っ直ぐに伸びている。右に向くと道のすぐ向こうに聳え立つ山に、 洋平は目を奪われた。山は巨大な影の塊となり、まるで得体の知れない怪物のようだ。吹きつける風がざわざわと鬣を揺らしているように見えて、 洋平の足が竦んだ。そして最悪の想像が彼の頭をかすめたが、咄嗟に振り払うと山に背を向け一目散に歩いた。

緩い傾斜の坂道を下る。疎らに立つ街灯の明かりは心もとない。そのうちの一本の、冷たい明りの下に立つマッチ棒のようにてっぺんが赤い像に、 洋平は強い安心感を覚えつつ速足で追った。寒さに体が強張り思うように動かせない。凍結した雪道の上を全速力で走ることができないもどかしさに苛立った。

人影は徐々に輪郭を鮮明にしていく。洋平は叫んだ。

「花道!」

名前を呼ばれ、花道は一瞬だけ動きを止めたが、再び歩みを進めた。洋平は後ろに振られた利き腕を左手で掴み怒鳴った。

「何やってんだよこの馬鹿! さっさと帰るぞ!」

「離せ」

こちらに向こうともしない頭の先で白い息が昇るのが見える。洋平は負けじと頑なに言った。

「ダメだ。一緒に帰るぞ。それまで離さねーからな」

「心配すんな。すぐに帰るから」

「心配するに決まってんだろ! どうしたんだよ花道。何があったんだ。教えろよ」

「お前には関係ねぇだろ……!」

怒気を含んだ太い濁声、けれどもそれは切ない悲しみを帯びていた。

掴まれた腕の先の拳は握り締められている。花道の言葉に、玉響に洋平の脳裏には悔恨に塗れた在りし日がまざまざと浮かんだ。そして彼の心に一瞬の迷いが生じた。

街灯の明かりが雪道に弧を描く。光と影が境界線を作っている。花道は光の下に、だがそこから出ようとしている。洋平は境目に立っていた。

「……関係あるよ」

洋平の言葉に、花道の拳がわずかに開いた。洋平は続けた。

「お前が大事だから、大切だから。だからオレには関係ある。自分勝手かもしれねぇけど、でも本気でそう思ってんだ。……これじゃあダメか?」

あの時から、思い上がりに変わってしまったとしても、奥底に埋もれていた気持ちは同じだった。

「お前がひとりになりてぇのは分かったし、そうなりてぇ理由も話したくねーならそれでいい。 ……けどよ、こんな所に放っておくなんてできねー。だからさ花道、戻ろうぜ。家に帰ろう」

軽く袖を引く。手応えを感じられず、洋平は眉尻を下げて足元に視線を落とした。しかしそれまでまんじりともしなかった足が動き、洋平は顔を上げた。

花道がおもむろに振り向いた。凍てついた空気に晒された頬が紅潮して、剝き出しの耳は洋平と同じく今にもちぎれそうに真っ赤だ。 怒りも失せ、冷たく力のない瞳。あの頃と同じ表情。上から降り注ぐ光が浅い眼窩と頬から下にのっぺりと濃い影を作る。 光の落ちる口元が開き、つられて影がゆっくりと動いた。

「天才に孤独はつきものだから」口元の影はまだゆらゆらと揺れる。

「あそこにずっと居ると鈍っちまう。腑抜けたまんま家に帰りたくねぇ」──短い睫毛が微かに震えた。 「……忘れそうになんだよ。家に帰っても、誰も──」

そして彼は口を閉じた。一文字に結ばれた唇がこれ以上の吐露を許さない。しじまがまた二人の間を流れる。

見つめ合いが続くなか、洋平が足を一歩踏み出した。確かな足取りで光の内側に入る。伸びていた腕は彼を袖を掴んだまま、二人の間にぶら下がった。

「オレがずっといるよ。満足するまでお前の家に泊まりに行く」

その言葉に花道の目が開き、射干玉の瞳がわずかに揺れた。洋平の目を凝視する。光の宿った双眸に自分の顔が映り、 真っ黒な海の中にいるみたいだ。それは初めて洋平の目を見つめた時と同じ印象だった。

花道は引き締まった口を緩めた。

「……なんで洋平、オレにそこまでしようとすんの」

訊かれて洋平は困ったように笑った。その笑みには、普段の彼らしい、爽やかでどこか飄々とした趣があった。

「言っただろ? お前が大切だから。それ以外に理由なんかねーよ。……なんかオレ、お前にはついなんでもしちまいたくなるんだよな。 それに、お前の夢は全部叶ってほしいって思ってる。お前がハルコちゃんの恋を応援するようにな。オレだってお前の恋を応援してるんだぜ? ……でも不思議だな、願わなくても、お前なら本当に全部叶えられる気がするよ」

洋平は手を差し出した。左手が既に花道と繋がっていることを彼は忘れていた。出会った日のように、もう一度この手を取ってくれることを待っていた。

「お前はひとりじゃない。みんなお前の帰りを待ってるよ。だから一緒に帰ろうぜ、花道」

洋平は自分が話している最中、花道の眉が今までとはまた違う顰め方をしているのに気付いた。まるで今にも小首を傾げそうな顔だ。その予想通りに花道の首が曲がり、彼は言った。

「……オレ、誰にも恋してねーけど」

想定外の返答に、洋平は面食らった。

「えっ? だってお前、ハルコちゃんが大好きだって……」

花道の顔がますます怪訝になる。そしてやっと合点がいったように目を見開かせ、ぶんぶんとかぶりを振った。

「だから! 好きだけど! 友だちとして好きなんだよハルコさんのことは! そう言っただろ!」

先ほどまでのもの悲しい様子と打って変わって声を荒げる花道の発言に、洋平も絶句した。

「はぁ? お前、そんなの……分かるわけ……」

言い終わらせる気力もなくして項垂れる。今までの精神的な苦労を思い出し、疲れとともに羞恥が湧き上がった。 外気で奪われたはずの熱が顔に集まる。洋平は差し出した手で側頭部を撫でた。手は整えられていない髪の上をさらさらと滑る。

「……あー、そーか、なるほどな。なんかオレ、スゲー勘違いしてたみてーだ、な……。ハハ、マジか、ヤバッ、恥ずかし……」

洋平は言って手を下ろした。腕を掴んでいたほうの手も力を弱める。

「おい」

花道が言い、離れかけた手に腕を伸ばし手首を捕らえた。洋平は驚いて顔を上げた。

「一緒に帰るまで離さねぇんじゃねーのかよ」不満いっぱいの面で、花道は洋平を睨んだ。「男に二言はねぇよな。一度言ったことは取り消さねぇよな」

「花道?」

花道は手に力を入れ、ぶつぶつと零した。「お前言ったよな。毎日泊まりに行くって言ったよな、 ずっとそばにいるって言ったよな、一緒に帰るって。……嘘だったら、テメーをぶっ殺す」

力はますます強くなっていく。布一枚纏っただけの手首ならたやすく握り潰すことができるだろう。洋平は真っ青な顔をさらに青ざめて、慌てて声を上げた。

「まっ、待て! 嘘じゃねぇ! 本当だから!」俯き、囁く。「全部本当だよ……」

血の気を失った手はろくに力が入らず張り裂けるように痛い。それでも彼は手を離さなかった。

重なり合ったひとつの影が、朧げな光の下に佇んでいた。