第二章

9

今日泊まりに行っていいか、そう電話口で訊かれ、洋平は戸惑いつつもすぐに頷いた。

あの日から数日が経ったが、変わらず花道は学校に顔を見せず、洋平も意気消沈した面持ちで花道が来ることを、相反する感情を抱きながら待っていた。花道との会話は夕方に掛かってきたその電話以来だった。

約束通り、花道は来た。時刻は午後八時前。寒風が吹きすさぶなか、薄着で自転車に乗って来た花道を、洋平の母親はしっかりと咎めた。神奈川に越して二十数年、すっかり口慣れた彼女の湘南弁は、粗暴だがむしろ力強い包容力を感じさせた。


居間のテーブルを洋平とその母親、洋平に向かい合うように花道が着いた。

花道は洋平の母親が置いた、熱いお茶の入った湯呑に悴んだ手を添えて、温めながらおもむろに言った。

「一人で、暮らすことになりました」

一瞬、眉間に皺を作った母親を洋平は見逃さなかった。しかし母親はすぐに戻すと優しく問いかけた。

「……花ちゃんがお願いしたのね?」

花道はこくりと頷いた。

「叔父さんの家、もうすぐ赤ちゃん生まれるから」

蛍光灯の冷たい白に照らされてか、目の下の青みは前よりも濃くなっているように見える。

洋平の母親は納得して──思うところがあるが、しかしどうにもできないと諦めている表情だと洋平には映った──言った。

「そっか。そうなんだね。どこに住む予定なの?」

訊ねられ、花道はどこか言いにくそうに答えた。引っ越し先の住所を聞いて二人は驚いた。同じ地区だった。アパートの名前は知らないが、番地からして徒歩で行ける距離にある。

「あら、ウチのすぐ近くじゃんね!」

驚愕と嬉しさの交ざった声で言い、彼女は自分の息子に顔を向けると彼の肩を揺すった。しかし、それまで目を丸くしていた息子は顔を俯かせて、彼女を見ることはなかった。

花道が口を開く。二人の視線は再び彼に向かった。訥々と話される拙い言葉に耳を傾ける。

「それで、一人暮らしは初めてだから……いろいろ教えてもらったけど、分かんねぇこと多分まだあって……でも電話回線、引いてもらって、だから夜とか電話するかもしれない、です。だから……」

赤い頭が下がる。テーブルに反響して、小さな挨拶が聞こえた。

「いつでも、なんでも訊いてね」

洋平の母親が言う。とても柔らかな声だった。


話は終わり、洋平の母親は花道を風呂に入らせ、洋平には自分の部屋に布団をもう一枚出すように言いつけた。

洋平は四畳半の和室に布団を二枚並べた。家具が少ないことで空間を保っていた部屋が、途端に窮屈に感じる。洋平は、今は物置になっている六畳間の兄の部屋を羨んだ。

しばらくして、花道が戻ってきた。花道は髪を乱暴にタオルで拭きながら、布団の上に腰を下ろした。洋平はちらちらと横目で花道の様子を見た。何か会話をしたかった。友人を話題に出したいが、あれから散々で、彼らとはろくに会話をしていない。今の洋平は誰にも合わせる顔がなかった。そんなことよりも、まず先に謝まらなければと、洋平は何度かためらい、ようやく勇気を振り絞って花道に向き直った。

「風呂、入んねぇのか」

しかし先に話したのは花道だった。

「あ……おう」

機を逃し、完全に挫けてしまった洋平は逃げるように風呂に入った。

自室に戻ると、もう花道は寝ていた。


……呻き声が聞こえて洋平は目を開けた。次第に覚める頭が、これは花道の声だと理解し、洋平は急いで花道のそばに寄った。

花道は喉から苦渋に満ちた声を絞り出して首を捻らせていた。雲の間から覗いた月の光が、引き攣り歪んだ顔の凹凸と、額に浮かぶ脂汗をくっきりと現す。

洋平は小さく花道を呼び、体を揺すった。花道は一回体を大きく痙攣させ、目を見開いた。

「大丈夫か、花道」

切羽詰まった声で洋平が言う。しかし花道は返事をせず、ゆっくりと半身を起こした。じっとりと汗で濡れた首元に手をやると、その手で片目を覆った。困憊のため息を吐いてから呼吸を落ち着かせる。

洋平は布団を握り、次はなんと声をかけるべきか迷っていた。

やにわに花道は立ち上がった。洋平が名前を呼ぼうとするのに被さるように、花道は言った。乾いた喉から出る低い声は、辛うじて洋平の耳に入る。

「ちょっと、水、飲んでくる」

花道がすり足で扉まで向かう。ドアノブに手を掛けた時、背後から畳と布の擦れる音が聞こえ、彼は振り向くことなく言った。

「来なくていい」

すると音は止み、花道はそのまま部屋を出た。


おぼつかない足取りで、軋む音が立たないように慎重に階段を下りる。疲労と憂鬱な気怠さが残る体が重たい。ずっと前からよく眠れなかった。見るのは同じ夢だ。現実と見紛うほどに生々しい悪夢に飛び起き、それが夢だとすぐに判断する頭の中を、徐々に虚しさと悔恨が侵食してきた。

階段を下りてすぐ隣にある居間に入り、台所の食器棚の前に立つ。戸を開くと食器たちが身を寄せ合って眠っていた。

ガラスのコップを棚から出す。ところが曲げた肘が棚にぶつかって手が痙攣し、コップは滑り落ちた。慌てて掴もうとしたが時すでに遅く、大きな音を立てて割れ、破片が床に飛び散った。花道は急いで拾おうと屈んだ。その拍子に曲げた背中に引き出しの取手が強かにぶつかり、痛みで顔を歪ませる。反射で頭を上げると開いたままの扉の角に打ちつけ、歯を食いしばって悲鳴を堪えた。

大声を出さないように抑えて破片を拾い集める。顔を顰め、湧き上がる怒りに耐える。瞬きをやめ、痛みで滲み出る涙に耐える。視界がぼやけ、口の端が震える。……

……花道の目から涙が零れ、とめどなく溢れてきた。手のひらの破片を落とす。涙とともにそれらは微かな光を放って落ちていく。静寂に浸ったこの部屋に、自分のすすり泣く声だけが響く。今にも潰れそうな小さな心を置いて、体だけが大きくなった。身体を収める場所が無い。もうどこにも寄る辺が無い。

「花道?」

前方から聞こえた洋平の声。花道には返事をする余裕はなかった。しかし咄嗟に泣き声を押し殺して口を噤んだ。

洋平は花道の足元に散らばる割れたコップを認めると、破片を踏まないように目を凝らしつつ花道に近寄った。

「花道、怪我してないか」

手を覗き見ると、幸いにも傷は無いようだ。

花道の涙にはとっくに気付いている。洋平は花道の背中を撫で、諭すように言った。

「部屋に戻ろう」

花道は洋平の言には従わず、首を横に何度も振った。体を縮めて頑なに拒む姿に、洋平は花道がまだ十四にも満たない子どもだと、そして自分も彼と同じだと思い出した。

「オレが後で片付けておくよ」

洋平は言った。かつて母親がそうしたように、毛布で包み込むような柔らかさをもって。

花道の口から喘ぐように呼吸が漏れた。震える唇でようやく言葉を発する。

「ごめ、ごめんなさい。オレのせいで」

「いい、気にしなくていい」

花道が顔を上げた。涙で濡れそぼった目。一瞬たりとも洋平を見ず、暗闇を捉え続けている。

「オレ、オレが……オレのせいで……」

うわ言のように繰り返される言葉。洋平は眉尻を下げ、何度も背中を擦って花道に語りかけた。

「落ち着け花道、大丈夫だから。戻ろうぜ」

「戻れねぇ」

過呼吸気味に息を継ぐ。「もう戻れねぇよ」

洋平の手が固まりそうになり、でもそれだけは止めてはならないと、言うべき言葉も分からないまま繋ぎ止めようとした。

「大丈夫だから」こんなことが言いたいんじゃなかった。

花道の声は止まらない。助けを求め喘ぐ呼吸の間を埋める言葉が、涙と同じく零れては闇の中に落ちていく。

「帰りたくねぇ、家──ドア開けんのが怖ぇ、いたらどうしようって──でもいないんだ、誰も、本当にひとりになった、これから──もうずっと一生──」

ひとりだ。

その一語を唇は作り、あとは嗚咽だけが生み落とされた。

「花道、オレ、オレはそばにいるから。ずっといる、離れない。オレも一緒に帰るから……」

洋平もまた、今にも泣きだしそうな声で言葉を紡いだ。空虚に響く自分の言葉が、自分そのものが憎い。洋平は今ほど己の無力さを感じたことはなかった。それでも絶えず語りかける口は、背中を撫でる手は止まらない。止めたくない。

荒い呼吸が次第に落ち着いていく。鼻を啜り、大きく喉を鳴らして、花道は洋平が促す通りに深呼吸をした。

割れたコップはそのままに、洋平は花道を連れて二階へと上がった。


布団の中に身を横たえる。洋平は首を横に曲げ、花道の様子を見た。花道は背を向けていた。

謝れるなら謝りたかった。洋平は、このまま先延ばしにするのは嫌だった。けれども今は余計だと察していたし、自分の溜飲を下げたいがために言う謝罪の薄っぺらさは胸糞が悪くて吐き気がした。葛藤は喉元までせり上がって洋平の呼吸を妨げた。

「あした」

不意に聞こえた声にどきりとして洋平は瞠目した。

「あした、学校に行く」

花道の言葉に、洋平は首を戻し、天井を見た。見慣れた染みが目につく。

「うん。オレもそうする」息を吐く。「おやすみ」

返事はこない。でも洋平にはそれでよかった。一抹の後悔と、それ以上の希望が胸中を満たして、洋平は目を瞑った。


花道はまだ起きていた。泣き疲れたのに眠れない。きっと今日も朝が来るまでこのままなのだろうと彼は思った。

隣からは穏やかな寝息が聞こえる。花道は寝返りを打った。いつの間にか洋平はこちらを向いていて、顔を合わせるような形になった。背中を丸くして寝ている洋平の顔は、髪を下ろすと余計に幼く見える。顔だけだといかにもナメられそうな感じだ、だからあまり見せたがらないんだよな、と花道は、以前彼がそう話していたのを思い出した。

『あの時はムカついたけど、もう気にしてねぇよ』

背中越しに話しかける。洋平はきっと、ずっと前のことを引きずっている。花道は理解していた。これを言っても、完全には満足してくれないだろうということも。

洋平の寝顔を見つめる。花道はまだ洋平に言いたいことがあったが、やっぱりやめることにした。

その代わり、未だに残る自分の背中の感覚を、忘れたくないと思った。