第二章
3
秋晴れの過ごしやすい日だった。十月に入って風景が秋づき、街路樹は道行く人と同じく装いを変えた。
放課後、教室を出て行こうとする洋平を、学級担任が呼び止めた。
「水戸、ちょっといいか」
普段の厭わしそうな態度とは打って変わった声色に、洋平は不審に思った。
「なに」
「お前、桜木の家にこれ届けてくれないか」
そう言うと教師は学年だよりなどが入った一枚のクリアファイルを差し出した。
洋平はそれを受け取る前に訊ねた。「……アイツの家って今──」
「今は親戚が預かっている。あそこは共働きだから日中は居なくてな。桜木はいるはずだが、 電話しても出なくて……もしいたら渡しがてら様子を見に行ってほしい。それと、説得もな……」
「説得?」洋平は眉を寄せた。
「学校に来るように励ましてほしいんだ。俺が話すより、お前が話したほうが適任だと思ってな。それに、俺はアイツに嫌われているからな……」
『当たり前だろ』
洋平は心の中で吐き捨てた。『ゴミを見るみてーな目のテメェを誰が好きになるか』
「そういうわけだ。お前、引き受けてくれるよな?」
説明を終えた教師は、期待の眼差しを洋平に向けた。
洋平は冷ややかな顔でポケットに手を突っ込んだ。
「要は面倒な役割を押しつけたいんだろ?」
軽蔑を隠しもせずに訊く。教師は一瞬身じろぎ、苛立ちで顔を歪ませたが、しかし今は下手な真似をしないほうが良いと判断し、冷静を努めて返した。
「……お前ならアイツを元気づけられる。これはお前にしかできないことなんだ。親友が留年するのはお前も嫌だろ? な?」
そう問いかけてファイルをもう少し洋平の前に差し出す。洋平は教師を強く睨んだが、おもむろにそれを受け取った。
睨まれて怯んだ教師は、しかし洋平が受け取るのを見ると安堵と満足の入り交じった笑みを浮かべた。
「家はそこまで遠くないからな。誰も居なかったらそのまま郵便受けに入れていいから。地図もそのファイルに入ってるし、渡す時は抜いといてくれ。頼んだぞ」
矢継ぎ早に話してさっさと教室を出て行った教師に、洋平は心の内で口汚く悪態をついた。
駐輪場にて地図を開く。コピー用紙に印刷された白黒の地図は、印刷が薄くて見えにくかった。だが地図に赤色のボールペンで丸く囲まれた箇所があり、 そこが目的地だとは分かった。しかし一目で分かるのはそれだけで、他には何も、中学校からそこまでのルートも何も書かれていなかった。
洋平は舌打ちをした。「もっと分かりやすくしろよ」
目を凝らすと、辛うじて読み取れた地名は以前花道が住んでいた町とはずいぶんと離れた所だった。聞いたことはあるが行ったことのない町に、 洋平は無事に辿り着けるか不安に思ったが、とりあえずはその町の郵便局まで向かってみようと自転車に跨った。
郵便局前に到着し、洋平は自転車を押して歩いた。ときどき立ち止まって現在地を確認しては、また歩いた。その足取りは重く、まるで泥濘の中を進んでいるようだった。
カーブミラーを見ると、猫背でしょぼくれた顔をした、いかにもナメられそうな男が映っていた。洋平は鏡に映る男を睨んだ。
正直に言えば気乗りはしなかった。あの時何もできなかった自分が、今になって何をやれると言うのだろう。
夏が終わってすぐに花道に異変が起こった。元々抱えていた鬱屈とした感情が爆発したのだ。詳しいことは知らないが、 父親との折り合いの悪化がそれに拍車を掛けているようだった。
洋平たちも最初はいつも通りに接しようと努めたが、何が彼の逆鱗に触れるか分からず、しばしば一方的な衝突が起こった。 また彼の生来の内向的な性格が友人との関りを避け、次第に花道は学校に来なくなった。
そして他校の不良と手当たり次第に喧嘩して、ついには警察沙汰となって謹慎処分を受けるまでに及んだ。
謹慎処分が解けた日、花道が久しぶりに学校に姿を現した。しかし、教室に入ってきた自分を見る教師や生徒たちの顔をぐるりと見まわすと、 舌打ちをして強く扉を蹴り踵を返した。
洋平は慌ててあとを追った。だが、「来るな」という一声で、彼の足は止まった。
「退学するかもしれない」
屋上にて大楠が言いだした。今朝の出来事を彼から聞伝えた野間と高宮が、花道の行く末を案じた。 三人が解決策を話し合っているなか、それまで黙っていた洋平が重たい口を開けた。
「今は放っておこう」
これに三人は非難の声を上げた。けれども、弁が立つ洋平の話を聞くうちに、彼らは口を閉ざした。
洋平と花道の間に、自分たちとはまた違った関係性があることを彼らは知っていた。花道について洋平のやることに間違いはない。 そう信頼していた三人は不承不承ながらも従った。
花道の父親が亡くなったのはその夕方だった。
洋平はため息を吐いた。夕日に向けた背中が熱い。
屋上でプロレスごっこをしてはしゃいでいた花道はもういない。洋平を振り回し、「ヒミツ」だと言って悪戯っ子のように笑う花道ももういない。 たったの二カ月で、日々はまるで砂のように崩れていくのか。
洋平は沈鬱な面持ちで歩き続けた。自転車の車輪がチリチリと音を立てて回る。すれ違う小学生の群れがヒーローごっこをして笑っていた。
不意に甘い香りが鼻を抜けて、洋平は歩みを止めた。
見上げると塀の上すれすれまで金木犀が葉を伸ばしていた。深緑の葉は夕焼けに染まって渋みが増し、小花は燃えるような黄金色をしていた。
控えめで華やかな香りが洋平を癒す。次第に、洋平の心に自信が湧いてきた。
確かにあの時の自分は何もできなかった。しかし、今は違う。あの日、花道のあとをどこまでも追えばよかった。 たとえ拒まれ殴られても、足元にしがみついてでもそばにいればよかった。そうでなければ花道も親父を亡くさずに済んだはずだ、と。
「今はひとりにしてあげて。でも、いつでも支えられるようにしなさい」
花道の父の件を知った母親が洋平に言った言葉を思い出す。洋平は鼻を鳴らした。
『ひとりにしたのがいけなかったんじゃねぇか。支えるべきは今だ。オレならアイツの力になれる』
洋平の目に誇りが宿る。今の彼は自分が為すべきことを知っている。即ち、暗所に立つ友人を光のほうへ連れ出すこと。
『それができるのはオレだけだ。オレだけなんだ……』
眉をそびやかし、背筋はしゃんとして伸び、口元には得意な笑みすら浮かぶ。
花道の親友であることに、彼は少なからず酔っていた。
洋平は目的地と思わしき一軒家の前に立ち止まった。老朽化の目立つ、横幅の狭い一戸建ての住宅だ。 ブロック塀には郵便受けが埋め込まれている。目を凝らすと、玄関横の表札には「桜木」と書かれていた。 向かいの家に植えられた金木犀の香りが漂う。
洋平は爪先立って家の窓を覗いた。カーテンが閉められて中の様子は分からない。窓に反射する夕日が目にしみた。 彼はしばらく門の前をうろうろしては家を矯めつ眇めつ眺めたあと、意を決して中に踏み入った。
咳払いを一つして玄関の呼び鈴を鳴らす。くぐもったベルの音が響き、洋平は耳を澄ました。しかし、物音一つ聴こえない。
もう一度、呼び鈴を押す。名前も呼んでみた。それでも誰も出てこない。洋平の心に翳りが差した。ここまで来てすごすごと引き返したくなかった。
意地になってまた鳴らす。洋平はわざとらしく靴底を擦った。ジャリジャリと耳障りな音が静かな玄関前に響く。 クリアファイルを持つ手が汗ばむ。洋平は体を捻って背後にある郵便受けを見つめた。陽は傾き、鮮やかな夕焼けに青紫の暮色が迫る。
今日はもう諦めるしかないようだ。洋平は首の後ろを掻くと引き返した。
三歩進んだ時、背後から引き戸の開く音が聞こえ、洋平は咄嗟に振り返った。
薄暗い玄関先に、背の高い男が突っ立っている。
引き戸から体を半分覗かせた花道が、洋平を認めると、戸をもう少し引いて全身を出した。
「あ、よう」洋平が言って戻った。心臓が早鐘を打っている。
花道は黙して身じろぎ一つしない。洋平は唾を飲み込んだ。
「これ、プリント、届けに……」
洋平はクリアファイルを差し出した。目線だけを下げて、花道は洋平の手元を見つめると、おもむろに手を伸ばした。
「おう」
小さく、声が発せられる。久しぶりに聞いた花道の声は掠れていた。
花道がクリアファイルの端を持つ寸前、洋平は手を引いた。
持ち損ねた花道が訝し気に洋平を見る。眉間に寄った皺が深くなっている。睨まれている洋平は、今にも何かを言いそうに口を薄く開けていた。
無言が流れる。洋平は乾いた唇を舐めた。花道と顔を合わせた時、それまで考えていた粋な文句が頭から消え去った。
薄暗い玄関に立つ花道の前髪は降りていた。寝起きなのだろうか、寝癖がついている。久しぶりに見たその髪型は花道の精悍な顔つきに、 彼が本来持っている幼さをより強く見せていた。しかし以前の溌溂さはすっかりと影を潜め、鋭い目つきは凍てつき、 双眸に収まった瞳は黒々と濁っている。下瞼が薄らと青みを帯びていた。
花道がもう一度クリアファイルを指で挟む。今度は大人しく手が離れた。クリアファイルは戸の向こうへと隠れる。花道は目線を下げて引き戸に手をかけた。
「はなみちっ」
洋平が呼んだ。引き戸が止まる。花道は彼に顔を向けた。
「おまえは、悪くない」
たどたどしい洋平の言葉に花道の左目が眇められる。
「……あ?」
「お前は何も悪くねぇよ。親父さんだってそう思ってるはずだ。それにオレがあの時いれば、こんなことにならなかった。お前を独りにしなければ……」
伏し目がちに出る言葉の端々から後悔が滲み出る。握りしめた拳に爪が食い込んだ。洋平は顔を上げた。明るさを取り繕おうと声を弾ませる。
「明日、どっか行こうぜ。こんな所にずっといてもつまんねーだろ、サ店でもどこでも好きなだけ奢ってやるから──」
「黙れ」
心臓が大きく脈打ち、洋平の声が詰まった。
目の前の男は見開いた目でもう一度、言い聞かせるように繰り返した。
「黙れ」
洋平は身を竦ませた。獣と対峙したかのようだ。硬直した体は死んだように冷たく、しかし額は汗が伝うほどに熱を持っていた。
「何様だよ、関係ねぇだろテメーには。出しゃばってくんじゃねぇよ」瞬きのしない両目が血走っている。 その顔に表情はないが、それが却って彼の怒りを物語っていた。
「知ったような口利きやがって……お前に何がっ、何が分かんだよ……!」
瞬き、一文字の力強い眉が曲がった。口の端は引き攣り、怒りを滲ませた声が震えていた。
「ちがっ、オレ、あの……」
花道の表情の変化を見た洋平はやっと声を上げられた。だがすぐにその声は途切れる。洋平は俯いた。弁解する言葉なんて何一つ無い。
今の彼は自分が為すべきことを知っている。
「……ごめん」
それ以上は声に出せなかった。ほどなくしてガラガラと音を立てて引き戸が閉まり、洋平は奥歯を噛み締めた。 音が止んでも彼は前を向けずにいた。膝から頽れたくなるのを堪える。視界には己の靴と敷居しか見えない。 張り詰めたものが切れてしまわないよう、埃に塗れた靴を食い入るように見つめた。
間違いだった。知ったような顔で人の心を土足で踏み荒らすことも、自分が嫌がることを人にすることも、思い上がりも、何もかも。
夕焼けは沈み、宵闇が忍び寄る。もうじき肌寒い夜が来る。
金木犀の甘ったるい匂いがやけに不快でしょうがなかった。