第二章

5-2

出発の準備を整えるため、客間に一度戻る。洋平は壁に掛けたジャケットを手に取った。

「なぁ洋平」

「ん?」

花道に声をかけられ、洋平は振り返った。花道は緩慢な動きでデニムパンツを穿き、脱いだスウェットパンツを弄んでいた。

「ハルコさんにフラれたって、この前話しただろ」

「あぁ」洋平は声を詰まらせがちに返した。

「そのことで洋平に訊きてーことがあってよ……」

「その前に教えてくれ」

洋平は花道の前で胡坐をかいた。「告白したのって、いつなんだ」

「冬の選抜の前」

花道は些事であるかのように答えた。洋平は項垂れそうになった。推測していたよりもずっと前の出来事だ。しかし気を取り直して言う。

「それで、なんだ訊きたいことって」

「あのよ、大好きなのにドキドキしないってなんでか分かるか?」

「……もう少し詳しく話してくれ」洋平は眉間を皺ばませた。

それから花道は事の経緯を話した。その話術は拙く、思い出しつつ話していくので、話が前後したり脱線したりした。 また、いつもの仰々しく古めかしい語彙が余計に話の理解を妨げた。

顔は真面目なふうにしているが、しかし手元は未だスウェットパンツを弄んでいる。洋平にはそれが無性に癪に障った。 洋平はなかなか肝心要な部分に行き着かない花道の話に、次第に募る苛立たしさをなんとか抑えつつ聞き役に徹し、花道を巧みに誘導してようやく要点を掴むことができた。

つまり、花道の心情に変化が訪れたのは、晴子だけが花道にお見舞いとして会いに来た日だった。部員によるお見舞いが解禁され、 晴子との文通が終わり、すぐに部員一同がお見舞いに来てから数日後の出来事だ。

「ハルコさんと二人きりになってスゲードキドキした。もうずっとハルコさんだけ会いに来ればいいのにって祈ったぜ!」花道が呑気に笑う。

「それで?」洋平は促した。彼にはもう笑い返す余裕はなかった。

「いろいろ喋ったあと、ハルコさんがマネージャーになった理由を話してくれて……」

花道の目が茫洋とする。

洋平は花道がまた話し始めるのを、今度は落ち着いて待った。花道の視線の先には晴子が立っていて、もう一度、あの日した話を繰り返しているように見えた。

花道がようやく、口を開ける。

「……その話聞いてオレ、急にドキドキが消えちまった」

それだけを言って花道はまた口を閉じた。万感の思いに浸っているようだった。洋平は問い詰めたい気持ちに駆られたが、そうしなかった。 花道の満ち足りた顔を見て、自分が踏み込んでいい場所ではないと悟った。

代わりに洋平は想像した。いつも窓が開け放たれている病室で、風に煽られ揺れる白のカーテンのはためきとさざ波の音が聞こえるなか、 彼女が静かに話す姿を。空を照り返したシーツを染める青い影が綺麗だ。記憶の中の彼女はいつも夏の朝のように朗らかな笑顔をしている。

絵になる光景だった。花道が惚れ直してもおかしくないと思えるほどに。

「ハルコさんって、本当に良い人だ」

花道の呟きに、洋平は心の中で頷いた。そして去年の夏、体育館で彼女が垣間見せた複雑な心情を思い出した。

嫉妬しているのに、それを本人には露も見せず、協力を厭わなかった彼女。おそらくずっと前からそうだったのだろう。 まだ何も知らない花道のレイアップシュートの練習につき合ってくれた時だって、彼女は初めて圧倒的成長を見せる花道の、 自分との持って生まれた違いを目の当たりにしてしまったんだろう。

それでもずっと、支えてくれた。我が事のように喜んでくれた。花道が体育館に戻ってくるのを待っていてくれた。

『……ハルコちゃんが、バスケットの世界に導いてくれて本当に良かった』

洋平は堪らず目を伏せた。湧き上がるのは感謝ばかりだ。

洋平は息を吐き、瞼を開けた。

「ドキドキが消えて、お前、どう思った?」

花道は本題を思い出し、そうだったと呟いて話を再開した。

「アレ?って思ったぜ。ハルコさんが話してる時はボーっと聞いてたから気付かなかったけどよ。 ハルコさんが帰ったあとからだんだん不思議な気持ちになったけど、でもしばらく会えなくても平気だって、 今日会えたから大丈夫とかそういうんじゃなく、ハルコさんも頑張ってるって知れたからもうそれでいいやって思った」ろくろを回すような手振りでつっかえつっかえに話す。

「退院するってなった時、バスケしたいって気持ちでいっぱいになった。早くこの天才が再び体育館に立つ感動的な姿をみんなに見せてやりたくて、 武者震いがして、心臓が耳元にあるみてーにうるさいんだ。洋平にも聴こえるんじゃねーかってくらいにな」

「……あぁ、聴こえてたよ」

洋平はやっと笑みを浮かべた。「マジかよ!」と花道は大きく笑う。

忘れはしない。いつもの三人と一緒に学校を抜け出し、世話になった人たちに見送られながら病院を出る花道を迎えに行った。 花道を原動機付自転車のリアキャリアに乗せて、自転車で来ていた三人を易々と追い越し、彼らからの怒号を浴びながら体育館へと駆けていった。 花道が腰に腕を回して落ちないように体を密着させる。興奮した花道が雄叫びを上げると、つられて洋平も叫んだ。 もっとスピードを上げろと喧しい花道の鼓動が背中越しに伝わって、自分の心臓と一緒になったみたいだった。

「それで、部活動が終わったあと、たまたまオレとハルコさんの二人だけになった時があってよ。玄関の前で。ハルコさんがオレに話しかけた時に言っちまったんだ」

「告白したのか」花道に少し近寄って座り直した。

「本当は言うつもりじゃなかった」

花道は続けた。「ハルコさんビックリしてたぜ。オレもビックリした。すぐに頭下げられたけどな。ルカワが好きだって……ケッ!」顔を顰め、唾を吐くように首を振った。

「すぐ断ったってことは、お前に好かれてるって薄々知ってたのかもな」

鈍いとはいえ、いつ悟られてもおかしくはないように思えた。花道に好意を寄せられているのは、当の本人を除いて周知の事実だ。誰かがうっかり話してしまうこともあり得るだろう。

しかし花道は釈然としない顔をして手を頭の後ろで組んだ。

「どうかなー。知らなさそうだったぜ。私に好きな人がいるって知ってるはずなのに、って感じの顔してたし」

洋平は花道の態度に違和感を覚えた。晴子の片思い相手が、自分が最も嫌っている男であることは快く思っていないが、 彼女が誰かに好意を寄せていること自体はもう気にしていないように見えた。

「それでオレ、フラれたのに、全然悲しくないのにもビックリして、混乱したまま勢いで訊いちまったんだ。なんでルカワなんか好きなんですかって」

「へぇ」

だが花道は表情を曇らせ、顔を少し俯かせた。

「そしたらハルコさん、笑って……あの顔見てオレ、訊かなきゃよかったって後悔したぜ。ハルコさんのあんな顔、見たくなかった。 でもあの顔で、ハルコさんの気持ちは変わらないんだってやっと分かった」

顔を上げる。先ほどまでの表情は嘘のように消え去り、清々しさを感じられるまでに戻った。

「諦めたのか」洋平は訊ねた。今、自分は誰と会話をしているのか分からなくなっていた。

「おうよ。でも友だちのままでいてくださいってお願いしたら頷いてくれたぜ。私も桜木君とずっとお友だちでいたいってさ…… うぅ、ハルコさんは良い人だなぁ……」花道は感動で目を拭う素振りをした。

「それでお前はもう、好きじゃなくなったのか。ハルコちゃんのことは」

「いや? 好きだぜ。ていうか嫌いになるワケねーだろ! ありえねー!」手を目の前で大きく横に振った。 「ハルコさんの恋を応援するぜ。ハルコさんのことが好きだからな。……でもよりによってなんでルカワなんかを……」

花道はぶつぶつとライバルへの愚痴を零した。洋平の耳の中を右から左へと通り抜けていく。

「でも、もしかしたら、お前もまた新しく好きな人を見つけるかもしれないよな」縋るような言い方だ。

「そりゃあ、そういうこともあるかもしんねーけどよ。恋心っつーモンは、自分じゃどうしようもできねぇからなぁ……。でも、今はこのままでいいや」

「なんで」

洋平の問いに花道は腕を組んで難しそうな顔をした。彼の異状には気付きもせずに。

「上手く言えねーけど、今はこのまんまでいいんだよ。恋人ができなくてもいい。天才に孤独はつきものだからな!」

「……なんで今まで黙ってたんだ。そんな話を」笑顔の花道とは正反対の面で洋平は訊いた。瞬きを忘れた目が薄らと赤みがかっている。

「言うワケねーだろ! 今までだってお前らに言ったことあるかよ!」花道は眉を吊り上げた。「バレたらお前ら絶対に冷やかすだろ。ハルコさんにまで迷惑かけたくねぇよ」

「じゃあなんであの時自分から話したんだよ……」酷く憔悴した声だった。

花道はすらすらと答えた。

「ずっと内緒にしてたらお前らもずっと、オレがフラれたって知らないままだろ? 洋平が気付かなかったんだからアイツらが気付くワケねーし」

返す言葉もない洋平をそのままに続ける。「最初は好都合だって思ったんだけどよ、もしお前らのヘタクソな計らいで告白のお膳立てされたら、 そっちのほうがハルコさんに迷惑だって考えてな。だからいっそのこと、もうお前らに話して誰にも言わないよう釘を刺しておこうって。 すっかり忘れてたけどよ。……オレってホント気が利くよなー」

ここが違うんだよここが。したり顔でこめかみをトントンと押す。

花道は一呼吸した。

「スゲー話長くなっちまった。ったく、洋平が一から説明させようとするからだぜ。……それで? 大好きなのにドキドキしないってなんでか分かるか?」

真っ直ぐに向けられた眼差しに、洋平は堪らず目を逸らした。開けたまま口に吐息だけが漏れる。 真夜中の思考が頭の中を廻る。答えは喉から出かかっている。上手く繋ぎ合わせれば、きっと言えるはずだ。 花道が顔を覗き込む。返事を待っている、早く答えなければ。でも何を、どれを伝えればいい?

「わからない」

ようやく言えたそれは、小さく、低く震えていた。

「なんだよそれ!」

花道は不満の声を上げた。そして呆れたふうにため息をついて立ち上がった。

「まー洋平って恋したことねーんだもんな。ハナから訊くだけムダだったか」

あからさまに残念そうな態度を取ると、強張った体を捻ってほぐし、テキパキとした動きで着替えた。白いセーターに首を通し、靴下を履く。洋平は花道を呆然と眺めていた。

扉の向こうから洋平の兄が二人を呼ぶ声が聞こえた。花道はジャケットを掴み振り返ると、未だ微動だにしない洋平に言った。

「アニキが呼んでるぞ。洋平もさっさと着替えろよ」

ドアノブに手をかけ、今にも出て行こうとする花道を見て、洋平は我に返った。呼び止めようとして慌てて立ち上がる。

「待てよ花道」

『オレを置いて行かないでくれ』

口から出かかったその言葉に、洋平は動揺を隠せなかった。

思ったことがなかった。花道がすっかり変わってしまったと悟った時も、一抹の寂しさこそあれこんなのは抱かなかった。

……違う、本当は薄々と気付いていたはずだ。でも認めたくなくて、その気持ちに辿り着く前に自分を誤魔化して考えるのを止めたのだ。

花道はもう居ない。洋平が部屋に残され、独り立ち尽くしている。

無理やり飲み込んだ言葉は喉を引っかかりながら、肚の中に還っていく。不快な後味に顔が歪んだ。