第二章

6

午前に歯医者の予約を入れていた義姉の代わりに、洋平は助手席に座った。陰鬱な気持ちを引きずったままの移動は具合を悪くさせ、車は大きな自然公園に停車した。

車内の暖房ですっかり火照った頬に冷たい風がぶつかる。洋平はしゃがみ込んで新鮮な空気を肺に取り込んだ。

「情けねー奴め、車酔いしてんじゃねーぞ」

花道が横から文句を垂れた。

「海鮮丼食いに行く予定だったのによ! 洋平のザコ、ザコザコザコ」膝頭を洋平の背中にぐりぐりと押しつける。

洋平は額に手をあてがうと、鬱陶しそうな顔で花道を見上げてぼそりと呟いた。

「うるせぇクソハゲ」

「あ⁉」

花道はいきり立ち、洋平の首根っこを掴もうと腕を伸ばした。しかし洋平の兄が間に入り、一触即発の空気は霧散した。

「昼までまだまだ時間はあるし、ちょっと散歩していこうぜ」

洋平の兄はそう言って、二人を引き連れて公園に入った。

遊歩道を歩いてしばらくしてから、トイレに行きたくなった彼は、二人に声をかけてその場を離れていった。

徐々に小さくなる背中を見送りながら、不意に花道が口を開いた。

「うーヤベェ。今スゲーバスケがしてぇ」

「明日まで我慢しろよ」

花道はじれったそうに足を踏み鳴らした。

「どっかにボールとゴールねーかなー」

溢れる元気を持て余した花道は体を小刻みに上下に揺らした。

「にしてもだだっ広いなぁここ」洋平が周囲をぐるりと見渡して言う。

キャンプ場やトレッキングコースもあるその自然公園は広大な土地を有し、ただの広場だけでも学校の校舎が二つは収まりそうなほどの面積があった。 遠くに見える数棟の建造物は何かの施設だろうか。それ以外に目ぼしいものは見当たらず、一面の銀世界を取り囲む林の向こうに、 緩やかな勾配の山がどっしりと構えている。これだけ広くて、なんの意味があるのだろうかと洋平は思った。

退屈な花道は舗装された道路から足を踏み外した。雪が脛まで埋もれる。

「ウヒョーッ」素っ頓狂な声を上げて、花道は雪を蹴散らして走った。

「あんまり遠くに行くなよ」

洋平が後を追う。雪原を歩くのは一苦労だ。彼の頭身では膝下まで雪に埋もれた。十メートルほど歩いただけでも、洋平の息が上がった。 防寒着に包まれた体が重くて熱くて、脱いでしまいたくなった。新雪の白が目に痛い。

「マジでなんもねーっ」花道は声を弾ませながら、なおも進み続ける。

洋平は一休みして後ろを振り返った。自分たちがいた遊歩道からずいぶんと離れてしまった。

上を見上げれば澄み渡る青空がどこまでも続いている。壮大な眺めに、洋平はそれまで抱いていた懊悩とした想いを忘れていたことに気付いた。 思い出したことによってまた彼の心に翳りが差したが、しかし、大いなる何かと一体化した感覚になり、許されているような、受け入れられているような静穏を味わえた。

洋平は息を吐いた。吐息は白く上に昇っていき、空に散っていく。洋平は目の前の空を、彼が生まれ育った湘南の海と重ね合わせた。 彼にもっとも馴染み深いのはあの海だ。洋平は息が昇る様子をぼんやりと見ながら思いに沈んだ。

あすこに住む人たちは、みな海を眺めて生きている。洋平もそうで、ただ無心で海を眺めているだけで、 煩雑な日常を忘れられた。大海原は人の心にゆとりを与えてくれる。

『でも昔のお前は違ったな』

洋平は後ろに立っている男に心の内で語りかけた。あの海の向こうには自分の求めている何かがある。そんな祈りに近い何かを、 彼は横で見ていて感じ取っていた。いったい何が欲しかったのかまでは分かっていなかったのだけれども。

同じ海を見る。考えていることは違っても、ただその一点だけで繋がっているような気持ちになった。

『だから思い上がってしまったのかもしれないな』そう自虐めいた笑みで口元を歪ませる。 しかし洋平の心はずいぶんと軽くなっていた。家を出る前の暗澹としていた自分が愚かしく、可愛らしくすら見えた。

冷静になった今だから分かる。洋平が恐れていたのは、知らない花道が増えていくことでも、 花道に必要とされないことでもない。自分の人生から花道がいなくなることだった。その退屈さを、彼は恐れていた。

『だってこんなに面白い男、世界中のどこを探したって見つからないもんな』彼は己に語りかけた。

初めて出会った時、偉そうに胸を張る花道に笑いが止まらなかった。なんて頼もしい男なんだろう。 本当に、もう何も恐れることは無いと思ってしまうような完全の頼もしさがあった。

退屈だった人生に突然現れた、赤い星に目を奪われた。時には災害を巻き起こしてはピカピカ輝く赤い星に虜になった。 虜になったから、星が去っていくのが恐ろしくて、ずっと手元に置いておきたかった。

『でもやっぱり、こんなに面白いもの独り占めなんてできねぇや。むしろみんなに見てもらうべきだ。みんなもオレと同じになればいい』

彼はやっと、胸にすんなりと馴染む本心を見つけた。

洋平は大きく伸びをすると後ろを向いた。花道の姿が見たくなった。

視線の先、青と白の世界の間で花道が立っている。赤らんだ顔で子どもみたいにはしゃいでいる。彼の体を流れる血潮が髪を染め上げたみたいだ。鮮血のような赤。

──綺麗だ。

洋平は口を押えた。あたかも魂が零れ落ちるのを咄嗟に食い止めるように。悴んだ手に熱い息がぶつかる。

彼は今この瞬間がどれだけ尊いかを理解した。そしてこの男の美しさを知った。あんまり美しいと、切ないほどの痛みが胸を走るということも。

洋平は息を飲み込み持ち堪え、強く彼の幸せを願った。

『どうかそのまま誰にも邪魔されることなく、どこまでもどこまでも駆けてくれ。 お前はアメリカにも行けるし世界一のバスケット選手になれるしお前の欲しいものは全部全部手に入る。オレはそれを信じている、 信じることをやめられない。どれだけ馬鹿げた願いでも、お前ならきっとできるんだって思ってしまう。 それくらいお前はめちゃくちゃで、頼もしい奴だ。だからオレはお前のためになんだってやりたくなった。 お前から目が離せなくなって、お前の瞬きを見逃したくなかったんだ』

寂しさは依然として、存在している。

でももう大丈夫だった。

同じ空を見る。同じ海を見る。それだけで花道の存在を感じられて、彼は生きていける。

洋平は溢れる感情のまま、花道を抱きしめたい衝動に襲われた。そしてあらん限りの声で今の想いをぶつけたくなった。 それができない代わりに、洋平は振り返り、遠くに聳える山々に向かって大声で叫んだ。雄叫びは山の向こうへと消える。 山彦となって返ってこないのかと彼は意外に思ったが、そんなことを考えられるほどには心に余裕が生まれていた。

「ビックリしたなー!」

後ろから花道が非難の声が聞こえ、洋平はくるりと振り返ると爽やかな笑顔を向けた。

「お前もなんか叫べよ! スゲー気持ちいいぞ」山のほうを指差して言う。

花道は少しの間、目を左上にやり口はへの字に曲げた。思案しているかのような顔になったかと思うと、大きく息を吸い込み大音声で叫んだ。

「桜木花道、北海道に参上!」

もう一度息を吸い込む。

「次こそは絶対に勝ーつ!」

雪崩が起きそうなほどの大声に洋平は笑った。

花道は満足そうに肩の力を抜かし、大声を出したことで高揚した気分のまま雪原に飛び込んだ。

「バカ、雪に飛び込むなって言ってただろーが」洋平がすぐに言う。

しかし花道はごろりと寝返りを打つと、手足をばたつかせた。

「ここなら問題ねーだろ。洋平もやってみろよー、スゲー気持ちーぞ」頭の後ろで手を組む。

気持ち良さそうに目を細める花道の姿に洋平も真似したくなって、花道の隣に腰を下ろすとゆっくりと寝転がった。

「うおー、スゲー……」

洋平の口から思わず感嘆の声が漏れ出た。立って見上げた時とはまったく違う空の迫力に、童心の興奮が胸に湧き上がった。

「雪の上で寝るとか、地元じゃゼッテーできねーな」

横から花道の声が聞こえる。

踏み固められた雪が体の凹凸に合わせて密着し、ちょうどいいリクライニングシートになっている。 背中から感じる冷たさが防寒着にくるまった体には気持ちいい。洋平は胸の上に両手を置いて、このまま眠ってみたいと思った。

会話もなく、雲が流れる様をじっと眺めてからどれくらい経っただろうか。もう数十分経った気もするし、 まだたったの三分しか経ってない気もする。心地良い退屈が時間の感覚を薄れさせる。

先に飽きたのは花道で、背中の冷えが我慢ならず彼はむくりと起き上がった。

ふと、花道は遠くにある何かに目を留めた。よくよく目を凝らしたあと、瞠目して飛び上がった。

「オオカミだ!」

そう叫ぶと花道は洋平を跨いで走りだした。

「ハァ?」突然のことに反応が遅れた洋平は重たい体を起こすと、花道が走っていく方向に顔を向けた。

目を凝らさなくても分かる。どう見ても大型犬が数匹いるだけだった。犬種は分からないが、少なくとも狼ではないことは確かだ。 日本に野生の狼などいるわけがない。すぐ近くにリードを持っている人間もいるのだ。

しかし思い込みの激しい花道は目を輝かせて駆けていく。

「オオカミだーっ!」

「おいっ、待てよ!」洋平は慌てて立ち上がり花道を追いかけた。

嫌な予感しかしない、早くコイツを止めないとろくなことにならない。そう焦るがしかしなかなか花道には追いつけず、 逆にその距離は開いていく一方だ。雪に足を取られて思うように走れない。それをものともせずに走る花道に、洋平は彼の身体能力を呪った。

洋平がようやく追いついた頃には、すでに花道は飼い主の前に立ちはだかっていた。

飼い主である女性は、突然物凄い速さで駆け寄ってきた赤い大男に怯み、大男が一歩こちらに近寄るたびに一歩下がった。

洋平が花道の隣に並んだ。膝に手を置き、ゼエゼエと肩で息をする。女性は怯えた目で花道と自分を交互に見ていた。

洋平は酸素の足りない頭でなんとかこの場を丸く収めなければと考え、まず女性の警戒心を解こうと笑顔を向けた。

満面の笑みを浮かべてじりじりと近寄ってくる髪まで真っ赤な大男だけでなく、額に汗を滲ませ、 荒い息遣いで自分を見つめるリーゼント頭の男にまで不気味な笑みを向けられて、女性はいよいよ身の危険を感じた。

「こんにちは……」

「こっ、こんにちは……」

洋平の挨拶に、女性はほとんど反射で返した。リードを限界まで後ろに引っ張って、飼い犬たちを近付けないようにしている。 躾けられた犬たちは吠えることなく、好奇心と警戒の入り混じった目で不審者二人を見ていた。

「あの、オレたち、怪しい者じゃないんです……」

洋平がそう言い終わる前に花道が屈んで、キラキラした目で口を開いた。

「オオカミだ! エゾオオカミ! 絶滅してなかったんだ!」

女性は呆気に取られて目を丸くし、口をぽかんと開けた。

「これエゾオオカミっスよね⁉ ね⁉」花道が女性を見上げる。

洋平はいっそこの赤頭を殴ってやりたくなった。

しかし呆然としていた女性は不意に風船が破裂したみたいに顔を綻ばせた。

「アハハ、狼じゃなくてシベリアンハスキーっていう犬種ですよ」

未だエゾオオカミだと連呼する花道に向かって答える。花道はキョトンとした顔で女性を見つめ返したあと、やっと女性の発言を理解して俯いた。

「なんだ、ただのイヌか……」

それまでの興奮とは打って変わってつまらなさそうにする花道に、洋平はどこまでも失礼な奴だなコイツはと、今さらながらに思った。

「ホント、オオカミみたいでカッコイイっスね」

もう落ち着いた呼吸で、洋平が言う。洋平の爽やかな口調に、好青年だと印象を変えた女性はにこやかな笑顔で相槌を打った。

花道の手が、自分に一番近い距離にいる一匹に伸びる。洋平が花道の前に片足を踏み出して遮る。

「触ってもいいですか?」洋平が女性に訊いた。

「どうぞどうぞ。みんな撫でられたがりですから」

女性はリードを握る手を緩めて、愛犬たちを二人に近付けた。洋平が片足を戻して花道の隣にしゃがみ込む。 花道は緑色の首輪をつけたハスキーの首元を、わしゃわしゃと両手で撫でた。ハスキーは吊り上がった口から舌を垂らして、 撫でられるがままになっている。洋平は横から背中を撫でた。すると赤い首輪をつけた一匹が洋平の腕をくぐって、ぐりぐりと頭を押しつけてきた。

「うおっ」

押されてバランスを崩した洋平は尻もちをついた。そのまま赤い首輪のハスキーが洋平に乗りかからん勢いで、撫でろと言わんばかりに湿った鼻面を押し当てた。

「あっ、ごめんなさい、この子ヒトが大好きで……」

女性が困ったように笑いながら慌ててリードを引っ張り、洋平から離そうとする。他の四匹に囲まれている花道が、洋平を指差して笑った。

一頻り撫でて洋平と花道が立ち上がると、女性がハスキーの首輪からリードを外していった。

「いつもここで遊ばせてるんです」

女性は上着のポケットからボールを取り出すと、二人の前に差し出して言った。

「よかったら遊んでみます?」

「いいんですか?」洋平が訊き返す。

女性は快く頷いた。

花道がボールを受け取る。ボールはゴム製で握りやすく、バスケットボールの見た目をしていた。

「なんだオメーらもバスケットが好きか!」花道はハスキーたちに振り返って言う。

ハスキーの群れは花道の手にあるお気に入りのボールを認めると、早く投げてほしくて飛び上がりながら尻尾を激しく振った。

花道は野球選手のように片足立ちになって投げる構えを取った。

「取ってこい!」

大きく振りかぶって投げられたボールは天高く飛び、青空に消える。剛速球に女性と洋平は感嘆の声を上げた。 ハスキーたちが全速力で駆けていく。花道が片腕をぶんぶんと振り回して豪快に笑った。

ボールの軌道を目で追いながら、洋平は胸を突き抜けていく清々しさに背中を反らした。