第二章

8

風呂の準備が整い、花道が着替えを小脇に抱えて部屋を出ようとするところに洋平が声をかけた。

「花道、大丈夫か?」

「なにが」

「マジで食あたりとか起こしてねーよな」

「べつにどこも痛くねーよ。気にすんな」

素っ気なく言って部屋を出る。洋平はそれ以上追及しなかった。

気にするなと言われたが、心配だった。あの大食漢の花道が食事を茶碗一杯だけで済ませるなんて珍しい。片付け中も、妙に大人しかった。

義姉に謝ったあと、背中を撫でたのが気になった。もしかしたら背中が痛むのだろうか。洋平は、雨が降ったりして天気が悪い時、背中が痛くなると言っていつも背中を撫でていた花道を思い出した。それが原因なのか。自分の痛みを話さない男だ。あの二人に心配をかけたくなくて黙っている可能性がある。洋平はそう考えた。

誘わないほうがよかったのかもしれないと、彼は申し訳なく思った。冬の北海道は花道の体に合わなかったのだろうか。だが仮にそうだとしても、今ここですぐに対処できるものじゃない。明日の朝になればこの場所ともお別れ、それまでの辛抱だ。

『今度、病院で診てもらうようそれとなく勧めてみるか』

洋平はひとまずそう決めると、花道が風呂から戻ってくるのを待った。


花道は風呂から上がり、茶の間に入った。部屋には洋平の兄が炬燵に入って、ビールを飲みながらテレビを見ていた。

花道の存在に気付き、彼は声をかけた。「おっ、花道」

「よー」花道はそう言って炬燵の中に入った。

テレビではお笑い番組が流れている。二人は出演者の俳優を指差して洋平の声に似ていると言ったり、画面の中の観客と一緒のタイミングで笑ったりした。

番組がコマーシャルに入った時、洋平の兄がふと口を開いた。

「あー明日で花道ともお別れかー寂しくなるなー」

「ハッハッハッ、そうかね」

「寂しいよ。このままうちの子になってほしいくらいさ!」

「……バカ言えよ」

洋平の兄は赤ら顔で楽しそうに笑みを浮かべながら、花道に訊ねた。

「バスケどうだ、楽しいか?」

花道は顔を上げた。「おうよ。天才は絶好調!」

胸を張る花道に、洋平の兄は微笑ましそうに頷いた。

「そりゃよかった……洋平も喜んでるよ。お前が楽しそうにしてて」

ビールをちびりと飲んで缶を置く。

「アイツ、電話でお前の活躍を教えてくれるんだ。自分事みたいに嬉しそうにさ」

「ほう」

「お前と出会ってから、スゲー楽しそうに笑うようになったんだ。目の輝きが違うんだよ」

そう言って、彼は幼い頃の弟の様子を語った。酔いが回っているようだ。饒舌に、とめどなく、思い出せる全てを花道に話した。

ずいぶんと可愛げのない子どもだったらしい。つまらなそうに世を見るその顔つきは大人びていると言い表すには些かの不気味さがあった。感情の機微に目敏いが、思いやりがあるとは言えない。たびたび、連絡帳にはクラスメイトの子を泣かせて喧嘩になったという旨の報告が丁寧な字で書き込まれていた。上級生になるにつれて問題行動も多くなり、小学六年生も半ばを過ぎた頃には洋平はその学校では有名な不良になってしまった。

いつも体のどこかに傷を作って帰ってくる洋平を見て、家族は不安に思った。このままだと、いつかとんでもない事件を起こすんじゃないか。そう危惧して迎えた始業式の日、当の本人は目に見えて上機嫌な様子で帰宅した。

理由を訊ねると、「スゲー面白い奴と友だちになった」とだけ答えた。その愉快そうに細めた目はからかいに満ちたいたずらっ子の心が溢れており、生まれて初めて見る表情だった。


「知らなかった」花道は言った。

「ハハハ、そりゃそうだろうな」

洋平の兄は缶ビールを呷った。最後の一口を飲み干すと、あっと慌てて言った。

「今の話、洋平には内緒な? オレもう口利いてもらえなくなっちまうよ……頼む花道、この通り!」空き缶を炬燵板に置き、大きく手を合わせて頼み込む。

花道はぼうっと、男のつむじを見つめた。

遠くから耳馴れた笑い声が聞こえて、花道の意識は引き戻された。横を向くがそこにはテレビしかない。四角形の箱の中で、あのよく似た声の俳優が手を叩いて笑っていた。

「花道?」

名前を呼ばれ、花道は首を戻した。洋平の兄は不安そうな顔で花道の様子を窺っている。やっぱり顔だけは似ている。返事を待つ彼に、花道はにかっと笑顔を作った。

「おう! 仕方ねーな! 黙っててやるよ!」


花道はもう寝ると言って茶の間を出た。廊下はひんやりと肌寒く、茶の間と浴室から漏れる光が差し込んでいるが、ちょっと歩けばすぐに足元も見えないほどの闇があった。闇の中にひとり。

脳裏をよぎった考えに、花道は背中を右手で撫でた。そしてふと、この動作に気がついた。

いつの間にかできた背中を撫でる癖。リハビリを始めてからだろう。痛む背中を撫でる動作が、そのまま染みついてしまった。初めはただそれだけが理由だったのに、彼はいつしか不安を、恐れを感じた時にもするようになった。まるで傷痕に触れるものから庇うように。

花道はもう一度、背中を撫でた。凍てついた闇に足を浸らせ、優しく、背中を擦る。心が落ち着く。同時に、花道の脳裏にある記憶が甦った。ずっと前にもこうやって何度も背中を撫でてもらった。耳元で切なそうに、絶えず話してくれた。

あまり思い出したくはない、けれども絶対に忘れたくもないあの冬の日。

洋平の家に泊まりに行った、あの冬の日。